真なる調和(第1部 / 皇帝の真実)
『完全忘却』の術式が宮殿全体を包み込む中、時の流れが歪んでいるような感覚に慶一郎は襲われた。
光の渦が彼の周囲で荒れ狂い、無数の記憶の欠片が宙を舞っている。それらは帝国全土から奪われた、数百万人分の想い出だった。子供の笑い声、母の子守唄、恋人同士の囁き、家族の温かな食卓——すべてが切り刻まれ、意味を失って漂っている。
だが慶一郎の調和の炎は、その混沌に負けていなかった。
炎は彼の全身を包み込み、記憶の嵐から身を守っている。それはもはや単なる炎ではなく、愛そのものが形を取ったような、神々しい光だった。
「無駄だ……」
アルカディウスの声が空間に響く。
彼は崩れた玉座の上に座り込んでいた。かつて威厳に満ちていた皇帝の姿は既になく、そこには一人の疲れ切った中年男性がいるだけだった。
乱れた白髪、やつれた頬、そして何より——三十年間の孤独と絶望が刻み込まれた、深く沈んだ瞳。
「私の痛みを……この世界の残酷さを……君が理解できるはずがない」
慶一郎がゆっくりと厨房設備に向かう。
一歩一歩が重く、まるで運命の重みを背負っているかのようだった。だが、その歩みに迷いはない。
「アルカディウスさん」
慶一郎が振り返る。
その目には深い慈悲の光があった。それは憐れみではなく——理解だった。
「セレナさんとの本当の記憶を、思い出してください」
アルカディウスの体が激しく震えた。
「やめろ……その話は……」
「あなたが世界から記憶を奪ったのは、彼女との記憶が痛すぎたからだ」慶一郎の声は静かだが確信に満ちていた。「でも、その痛みの奥にある愛を——もう一度、感じてみてください」
エレオノーラが慶一郎の隣に立つ。
天使の彼女もまた、深い悲しみを瞳に宿していた。アルカディウスという男の魂の痛みが、天使の心にまで響いているのだ。
「愛は決して、人を苦しめるためにあるものではありません」
エレオノーラの声が、やわらかく謁見の間に響く。
「たとえそれがどんなに痛みを伴っても——愛そのものは、美しいものです」
改心した三人の長官たちも、黙ってアルカディウスを見つめていた。
エリーザは娘ミアへの愛を思い出し、ヴァルガスは息子エドワードへの愛を胸に抱き、カインは患者を救いたいという医師の愛を取り戻していた。
彼らもまた、愛ゆえに苦しみ、愛ゆえに道を誤った人間だった。だからこそ、アルカディウスの痛みが理解できた。
「セレナ……」
その名前が、アルカディウスの唇から漏れ出た。
三十年間、心の奥底に封印してきた名前。愛する妻の名前。
その瞬間、『完全忘却』の術式が揺らいだ。
アルカディウスの心に封印されていた記憶の扉が、軋みながら開かれ始めたのだ。
---三十年前——記憶病が進行する愛妻との日々
アルカディウスは毎朝、ベッドサイドで妻の様子を確認するのが日課だった。
セレナは美しかった。病気になってもなお、彼女の美しさは変わらなかった。栗色の髪は以前ほど艶やかではなくなったが、翡翠色の瞳は今でも宝石のように輝いている。
「おはよう、セレナ」
アルカディウスが優しく声をかける。
「今日の調子はどう?」
セレナがゆっくりと目を開ける。最初は焦点が定まらず、きょろきょろと辺りを見回していた。
「あなた……どちら様でしたっけ?」
その言葉が、アルカディウスの心を剣で貫いた。
昨日は夫だと認識してくれていたのに。昨夜は「愛してる」と言ってくれていたのに。
だが、アルカディウスは微笑んだ。
「私はアルカディウスです。あなたの……友人です」
嘘だった。夫だった。十五年間愛し合った夫だった。
だが、セレナを混乱させるよりは、友人として受け入れてもらう方がいい。
「アルカディウス……素敵なお名前ね」
セレナが微笑む。その笑顔は、昔と変わらず美しかった。
「私の夫も、確かそんな名前だったような気がするの」
アルカディウスの胸が締め付けられた。
夫の名前すら曖昧になっている。だが、完全に忘れたわけではない。心の奥底では、まだ覚えていてくれている。
「きっと、素晴らしい方なのでしょうね」
アルカディウスが答える。
「そうね」セレナが遠くを見つめる。「とても優しい人だったような……」
---記憶病が進行する中での料理
セレナは料理を作ることを忘れなかった。
手順は混乱していたし、材料を間違えることもあったが、それでも毎日キッチンに立とうとした。
「今日は何を作りましょうか?」
アルカディウスがエプロンを結んであげながら聞く。
「スープよ」セレナが嬉しそうに答える。「愛する人のために、特別なスープを作るの」
愛する人——それが夫である自分のことなのか、記憶の中の誰かなのか、アルカディウスにはわからなかった。
だが、セレナが誰かを愛する気持ちを失っていないことが嬉しかった。
セレナの手がフライパンを握る。その手は以前ほど器用ではなくなっていたが、愛情だけは昔と変わらず注がれていた。
「玉ねぎを炒めて……」
セレナが独り言のように呟きながら調理する。
「人参も入れて……セロリも……」
だが、途中で手が止まった。
「あれ? 次は何を入れるんだったかしら?」
困惑するセレナの顔を見て、アルカディウスの心が痛んだ。
「お肉はいかがですか?」
そっと提案する。
「そうね、お肉も入れましょう」
セレナが微笑む。その笑顔に救われる思いだった。
完成したスープは、決して完璧ではなかった。塩加減も、火加減も、材料のバランスも、すべてが不完全だった。
だが、アルカディウスにとっては世界で一番美味しいスープだった。
「美味しいわ」
セレナが自分で作ったスープを飲みながら言った。
「こんなに美味しいスープ、誰が作ったのかしら?」
自分で作ったことを忘れている。だが、その無邪気な笑顔を見ていると、胸が張り裂けそうになった。
「きっと、あなたを愛している人が作ったのでしょう」
アルカディウスが答える。
「そうね」セレナが頷く。「愛情がたっぷり入ってるもの」
---最期の日の記憶
セレナの容態が急変したのは、ある雨の日の夜だった。
呼吸が浅くなり、体温が下がり、意識も朦朧としている。医師は「もって数時間でしょう」と告げた。
アルカディウスはベッドサイドに座り、妻の手を握り続けた。
その手は以前よりもずっと細く、冷たくなっていたが、まだ確かに生きていた。
「セレナ……」
小さく名前を呼ぶ。
セレナの瞼がゆっくりと開かれた。焦点の定まらない目が、アルカディウスを見つめる。
「あなたは……」
か細い声で呟く。
「どちら様……でしたっけ?」
最期まで、夫として認識してもらえなかった。
だが、アルカディウスは微笑んだ。最後まで、彼女を愛する男として。
「私は……あなたを愛している者です」
セレナの目に、わずかな光が宿った。
「愛……」
その言葉を反芻するように呟く。
「私も……誰かを……愛していたような気がします」
セレナの手に、かすかな力が宿った。
「とても……とても大切な人を……」
そして、最期の言葉を紡いだ。
「あなたは……とても優しい人ね」
アルカディウスを見つめながら。
「きっと……誰かに深く愛されているのでしょう」
その言葉と共に、セレナの手から力が抜けた。
愛する妻は、夫を他人として認識したまま、静かに息を引き取った。
アルカディウスは泣かなかった。泣くことすらできなかった。
ただ、心の中で何かが壊れる音を聞いていた。
愛そのものが砕け散る音を。
---復讐の始まり
セレナの葬儀は、小さく静かに行われた。
参列者は少なかった。記憶病患者の家族ということで、多くの人が距離を置いていたのだ。
棺の中のセレナは、まるで眠っているように美しかった。
だが、もう二度と目を覚ますことはない。もう二度と、アルカディウスの名前を呼ぶこともない。
墓地から帰る道で、アルカディウスの心に暗い炎が灯った。
「なぜだ……」
独り言のように呟く。
「なぜ記憶などというものが存在するのだ……」
雨が降り始めていた。冷たい雨が、アルカディウスの頬を伝い落ちる。
「記憶があるから、人は愛する。愛するから、失った時に苦しむ」
歩きながら、彼の中で何かが変化していく。
「ならば……記憶さえなければ……」
その時、アルカディウスの脳裏に恐ろしい考えが浮かんだ。
「愛することもない。失うこともない。苦しむこともない」
セレナのことを考える度に胸が張り裂けそうになる。彼女の笑顔を思い出す度に絶望に沈む。
ならば——
「すべての人から記憶を奪えば、誰も苦しまずに済む」
善意だった。歪んだ、間違った善意だったが、確かに善意だった。
セレナと同じ苦痛を、誰にも味わわせたくない。
愛する人を忘れる痛みを、愛する人に忘れられる絶望を、誰にも経験させたくない。
それが、記憶帝国の始まりだった。
愛から生まれた憎悪。救済への願いから生まれた支配。
アルカディウス・セレニウスは、その日死んだ。
そして記憶皇帝が、誕生した。
---
謁見の間で、アルカディウスが慟哭していた。
「私は……私は彼女を愛していた……」
三十年間封印していた感情が、すべて溢れ出している。
「セレナを守りたかった……世界中の人を、私たちと同じ苦痛から救いたかった……」
その時、慶一郎が動き始めた。
厨房設備の前に立ち、静かに食材を手に取る。
「今度は、俺があなたを救う番です」
慶一郎の目には、深い決意が宿っていた。




