光と影の晩餐(第4部 / 皇帝との直接対峙)
記憶皇帝が謁見の間に降り立った瞬間、世界の色彩が失われた。
すべてがモノクロームの世界に変わり、音という音が吸い取られていく。呼吸すら困難になるような、圧倒的な存在感だった。
皇帝の姿は威厳に満ちていた。深紫のローブを纏い、頭上には記憶の欠片で作られた王冠が浮遊している。だが慶一郎には見えた——そのローブの下に隠された、やせ細った肩を。王冠の輝きの裏にある、深い疲労を。
彼もまた、苦しんでいる人間なのだ。
「貴様らが……」
皇帝の声は宮殿全体に響いた。だがその声は、怒りよりも——絶望に近かった。
「貴様らが私の帝国を、私の秩序を破壊したのか」
足元に転がる三人の長官たち。エリーザは床に膝をつき、ヴァルガスは拳を握りしめ、カインは白衣を脱ぎ捨てて涙を流している。
彼らの姿を見下ろす皇帝の目に、一瞬だけ——悲しみが宿った。
「愚かな……愚かな者たちだ」
その声は、まるで子を叱る父親のようだった。
「記憶がどれほど人を苦しめるか……どれほど残酷な枷となるか……貴様らは理解していない」
慶一郎が一歩前に出る。
調和の炎が彼を包んでいるが、皇帝の圧倒的な力の前では、それすら小さな灯火のように見えた。
「陛下……」
慶一郎が口を開く。
「あなたもまた、大切な記憶を失った人なんじゃないですか?」
皇帝の動きが止まった。
宙に浮かんでいた無数の記憶の欠片たちも、まるで時が止まったかのように静止した。
「……何?」
「セレナ……という名前に、聞き覚えはありませんか?」
その瞬間、皇帝の周囲で何かが弾けた。
記憶の欠片たちが激しく渦巻き、宮殿全体が震動する。皇帝自身も、まるで見えない何かに殴られたかのようによろめいた。
「その名前を……その名前を言うな……!」
皇帝の声に、初めて人間らしい感情が宿った。
それは怒りでも威厳でもなく——純粋な、痛みだった。
「セレナは……セレナはもう……」
皇帝の手が震える。
その手は、かつて愛する人の髪を撫でていた手だった。病床で苦しむ妻の額に、優しく触れていた手だった。
慶一郎の胸の奥で、調和の炎がより強く燃え上がる。
それは怒りの炎ではない。深い哀れみの炎だった。
「あなたの本当の名前は、アルカディウス・セレニウス」
慶一郎が静かに言った。
「元は記憶研究の学者で、愛妻セレナの記憶病を治そうと必死に研究していた……違いますか?」
皇帝——アルカディウスの顔が、激しく歪んだ。
王冠が音もなく砕け散り、ローブから威厳が失われていく。その下から現れたのは、一人の疲れ切った中年男性の姿だった。
白髪混じりの乱れた髪。やつれた頬。そして何より——深い絶望に沈んだ瞳。
「やめろ……その話はやめてくれ……」
アルカディウスが両手で頭を抱える。
「私は……私はただ……」
慶一郎の脳裏に、真実が浮かんだ。
調和の炎が、この男の記憶に触れたのだ。そしてそこには——この世で最も美しく、最も残酷な愛の物語があった。
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『——アルカディウス、今日は調子がいいの』
ベッドに横たわるセレナが、夫に向けて微笑む。だがその笑顔は、昨日よりも少し薄くなっていた。
記憶病——それは少しずつ、確実に、人の記憶を奪っていく不治の病だった。
『今日は、私たちの結婚記念日よね?』
違う。結婚記念日は三ヶ月も前だった。
だが、アルカディウスは微笑んで答えた。
『そうだよ、セレナ。君と結婚して、十五年だね』
嘘だった。二十三年だった。
でも、セレナが幸せそうに笑うなら、どんな嘘でもつこう。
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『——あなた、どなたでしたっけ?』
ある朝、セレナがアルカディウスを見て首をかしげた。
夫の顔を、忘れてしまったのだ。
『私は……』
アルカディウスの胸が張り裂けそうになった。
『私は、あなたの友人です。アルカディウスという名前の』
『まあ、素敵な名前ね。私の夫も、そんな名前だったような気がするの』
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『——私、何をしているんでしょう? ここはどこ?』
セレナは一日に何度も同じことを聞いた。
アルカディウスは一日に何度も、同じ答えを返した。
愛する人が、少しずつ消えていく。
記憶と共に、人格も、魂も、すべてが失われていく。
しかし最も残酷だったのは——
『あなたの奥様、美しい方ですね』
セレナが鏡に映る自分を見て言った言葉だった。
自分自身すら、忘れてしまったのだ。
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そしてセレナは死んだ。
記憶をすべて失い、自分が誰なのかも分からないまま。
最期の言葉は——
『あなたは、とても優しい人ね。きっと、誰かに愛されているのでしょう』
愛する妻に、他人として扱われたまま死別した。
これ以上の地獄があるだろうか。
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アルカディウスは研究を続けた。
セレナのような悲劇を、二度と起こさせないために。
だが——研究が進むにつれて、彼の心は歪んでいった。
『記憶さえなければ、人は苦しまない』
『愛する人を忘れることも、忘れられることもない』
『記憶こそが、人間の不幸の根源だ』
善意から始まった研究が、いつしか復讐に変わっていた。
世界中の人々から記憶を奪い、二度と愛による苦痛を味わわせない。
それが——歪んだ愛の形だった。
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「私は……私は間違っていない……」
アルカディウスが呟く。
だがその声は、自分自身に言い聞かせているようだった。
「記憶があるから、人は苦しむのだ。愛があるから、人は絶望するのだ。だから私は——」
「違う」
慶一郎が首を振る。
「記憶があるから、人は生きられるんだ。愛があるから、人は強くなれるんだ」
エレオノーラが慶一郎の隣に立つ。
「愛は確かに痛みを伴います」天使の声が、優しく響く。「でも、その痛みもまた、愛の一部なのです」
アルカディウスの目に、初めて涙が浮かんだ。
それは三十年間、一度も流すことのなかった涙だった。
「君たちには……わからない……」
震え声で呟く。
「愛する人に忘れられる痛みが……最愛の人が消えていく絶望が……」
「わかります」
慶一郎が歩み寄る。
「俺も、大切な人を失いました。でも——その記憶があるから、今でも彼女を愛し続けることができる」
エレオノーラの手を握る。
「記憶は、愛する人との絆そのものです。それを奪うことは、愛そのものを殺すことだ」
アルカディウスが崩れ落ちそうになる。
三十年間支えてきた信念が、音を立てて崩れていく。
「では……では私は……三十年間、何をしていたのだ……」
その時、宮殿に新たな警報が響いた。
『記憶皇帝陛下! 帝国軍部隊が宮殿を包囲! 皇帝退位を要求しています!』
政府の三大長官が反乱し、皇帝の精神状態も不安定——軍部がクーデターを起こしたのだ。
アルカディウスが笑った。
それは絶望的な、自嘲の笑いだった。
「そうか……私は、誰からも必要とされていないのだな」
彼の周囲で、記憶の欠片たちが荒れ狂い始めた。
それは帝国全土から集められた、数百万人分の記憶——怒り、悲しみ、絶望、憎悪のすべてが渦巻いている。
「ならば!」
アルカディウスが立ち上がる。その目には、狂気が宿っていた。
「すべてを終わらせよう! この世界の、すべての記憶を消し去ってやる!」
宮殿全体が光に包まれる。
それは記憶消去の究極魔法——『完全忘却』の術式だった。
これが発動すれば、帝国どころか世界中のすべての生物の記憶が失われる。
人類は、真っ白な状態で新たに始まることになる。
「陛下、やめてください!」
三人の長官たちが立ち上がる。
エリーザが、ヴァルガスが、カインが——改心した彼らが必死に止めようとした。
だが、アルカディウスの決意は固かった。
「もう遅い……すべてが遅すぎたのだ……」
術式の光が強くなる。
もはや、誰にも止められない——
そう思われた、その時。
慶一郎が前に出た。
調和の炎が、これまでで最も強く燃え上がった。それはもはや炎ではなく、純粋な愛の光だった。
「アルカディウスさん」
静かに、だが確固たる意志を込めて言った。
「俺に、最後の料理を作らせてください」
アルカディウスの手が止まった。
「料理……だと?」
「セレナさんとの思い出を込めた、愛の料理を」
慶一郎の目には、深い慈悲の光が宿っていた。
「きっと、彼女はあなたを忘れていなかった。愛は、記憶を超えて存在するものだから」
アルカディウスの瞳に、かすかな光が戻った。
それは希望だった。
三十年ぶりに心に灯った、小さな希望の光だった。
記憶皇帝と『調和の炎』の使い手——
愛をめぐる最後の戦いが、今始まろうとしていた。




