光と影の晩餐(第3部 / 政府内部分裂)
包丁が砧板を打つ音が、まるで心臓の鼓動のように謁見の間に響いていた。
慶一郎の手は迷いなく動いている。今度作ろうとしているのは、父親の愛を思い出させる料理——息子への深い愛情を込めた、あたたかなスープだった。
玉ねぎを炒める音が立ち上がる。ジュウジュウという音とともに、甘い香りが空間を満たしていく。
その香りに、ヴァルガスの記憶ブレードを握る手がわずかに震えた。
「やめろ……」
彼の声は掠れていた。
「その香りは……やめてくれ……」
だが慶一郎は止まらない。調和の炎が彼の全身を包み、料理に魂を込めていく。野菜を煮込む音、スープが沸騰する音、そのすべてが記憶を呼び覚ます音楽となって響いていた。
「ヴァルガスさん」
慶一郎が振り返る。その目には深い慈悲の光が宿っていた。
「息子さんの名前は、何て言うんですか?」
ヴァルガスの顔が、激しく歪んだ。
「言うな……その名前を言うな……!」
記憶ブレードが震える。だがそれは攻撃のためではなく、抑えきれない感情のためだった。
「エドワード……」
その名前が、彼の唇から漏れ出た。
「エドワード・ヴァルガス……私の、私の愛する息子……」
慶一郎のスープが完成に近づく。最後に加えたのは、ほんの少しの蜂蜜。それは子供が好む、優しい甘さだった。
「完成です」
慶一郎が深い器にスープを注ぐ。湯気が立ち上り、その中に無数の記憶の欠片が舞っているように見えた。
ヴァルガスが皿を受け取る。その手は震えていたが、記憶ブレードはもう床に落ちていた。
「これは……エドワードが好きだった……」
一口。
スープが喉を通った瞬間——世界が変わった。
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『——お父さん、お腹すいた!』
六歳のエドワードが、目を輝かせて台所に駆け込んでくる。ヴァルガスは仕事から帰ったばかりで、疲れ切っていたが、息子の笑顔を見ると疲れなど吹き飛んだ。
『今日は何が食べたい?』
『お父さんの作るスープ!』
不器用ながらも、息子のために作った野菜スープ。エドワードは最後の一滴まで飲み干して、満足そうに笑った。
『お父さんのスープ、世界一だよ!』
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『——お父さん、僕、記憶研究者になる!』
十五歳のエドワード。父の仕事に憧れて、同じ道を志していた。
『人の記憶を守る仕事がしたいんだ。お父さんみたいに』
当時のヴァルガスは、まだ記憶を守る研究をしていた。人々の大切な思い出を保護し、認知症や記憶障害の治療法を探していた。
息子もまた、人を助ける仕事に就きたいと言ってくれた。
あの頃は、希望に満ちていた。
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そして——運命の日。
帝国が記憶管理法を制定し、ヴァルガスの研究所を接収した日。
『ヴァルガス博士、あなたの息子エドワードは思想犯容疑で逮捕された』
『何? エドワードが何をしたというんだ!』
『記憶の自由を主張し、民衆を扇動した罪です。しかし……』
帝国の役人は薄笑いを浮かべた。
『あなたが我々に協力すれば、息子の罪は軽くなるでしょう』
選択肢はなかった。
息子を救うために、自分の魂を悪魔に売り渡すしかなかった。
だが——
『お父さん、僕は大丈夫だから……』
面会で見た息子の最後の笑顔。やせ細った体、青白い顔、それでも父を気遣う優しい目。
『お父さんは、正しいことをして』
一週間後、エドワードは獄中で死んだ。
死因は病死とされたが、真実は——記憶を完全に奪われた結果だった。
息子は、自分自身すら忘れて死んでいった。
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「エドワード……エドワード……!」
ヴァルガスが慟哭した。
三十年間押し殺してきた父親の愛が、一気に溢れ出した。スープの器を抱きしめながら、まるで息子を抱いているかのように。
「ごめん……ごめんよ、エドワード……お父さんは、お前を守れなかった……守れなかった……!」
エレオノーラが涙を浮かべて見ている。
エリーザもまた、同じ親としてヴァルガスの痛みを理解していた。
慶一郎がヴァルガスの前に膝をつく。
「息子さんは、ヴァルガスさんを誇りに思っていたはずです」
「だが私は……私は息子の意志を裏切って……」
「今からでも遅くない」慶一郎が手を差し伸べる。「息子さんの意志を継ぎませんか? 記憶を守る、本当の仕事を」
ヴァルガスが顔を上げる。涙に濡れた顔に、かすかな希望の光が宿っていた。
だが、その時——
「興味深い実験データが取れているな」
冷徹な声が響いた。
ドクター・カインだった。彼は白衣の胸ポケットからメモを取り出し、何かを書き込んでいた。
「感情的記憶復活による精神状態の変化……これは貴重なサンプルだ」
慶一郎が立ち上がる。
「カイン……あんたもまた、何かを失った人間なんじゃないか?」
「失った?」カインが眼鏡を押し上げる。「私は何も失っていない。すべてを科学的に分析し、理解しているからな」
だが、その声にはかすかな震えがあった。
「医師として、人を救いたかった時代があったんじゃないか?」
「医師……」カインの目が、一瞬揺らいだ。「そんなものは、非効率的なノスタルジーに過ぎん」
慶一郎が最後の厨房に向かう。
「なら、俺の最後の料理を食べてから、そう言ってくれ」
調和の炎が、これまでで最も強く燃え上がった。
それは単なる火ではなく——慶一郎のすべての愛、すべての想い、そして仲間たちの絆が結集した、奇跡の炎だった。
慶一郎が取り出したのは、シンプルな材料。卵、小麦粉、牛乳——それだけだった。
だが、その手が作り出したのは、魔法のような料理だった。
ふわふわのパンケーキ。しかしその表面には、まるで虹のような光が踊っていた。エレオノーラの天使の力が、料理に奇跡を宿らせていたのだ。
「これは……」カインの声が震えた。
「医師として人を救おうとしていた頃のあんたに食べてもらいたい」
皿を差し出す慶一郎の目には、深い信頼の光があった。
カインが恐る恐るフォークを手に取る。
一口食べた瞬間——
彼の中で、封印されていた記憶が爆発した。
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『——君は優秀な医師になれる』
医大の恩師の言葉。
『人を救うことこそが、医師の使命だ』
その言葉を胸に、カインは必死に勉強した。
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『——ありがとう、先生』
初めて救った患者の笑顔。
『先生のおかげで、また家族と過ごせます』
その時の喜びは、何物にも代えがたかった。
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そして——帝国による医療管理。
『カイン医師、あなたには記憶医学の研究をしてもらう』
『記憶を治すのではなく、記憶を消去する研究を』
『人の記憶を自由に操作できれば、病気も苦痛も存在しなくなる。それこそが真の医学だ』
最初は抵抗した。
だが、従わなければ医師免許を剥奪すると脅された。
患者を救えなくなるよりはマシだと思った。
しかし——気がつけば、自分は人を救う医師ではなく、人を操る怪物になっていた。
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「私は……私は何をしていたんだ……」
カインが崩れ落ちる。
白衣が床に広がり、金縁の眼鏡が転がった。
「患者を救いたかっただけなのに……なぜ、なぜこんなことに……」
三人の長官が、すべて改心した。
その時、謁見の間に警報音が響いた。
『緊急事態発生! 三大長官の反乱! 記憶宮殿制圧部隊、直ちに鎮圧に向かえ!』
エリーザが立ち上がる。涙を拭って、決然とした表情を見せた。
「私は、料理検閲局長官として宣言する」
彼女の声は、謁見の間に響き渡った。
「料理検閲法は、即刻廃止! すべての料理人に、自由な創作を許可する!」
ヴァルガスも立ち上がる。
「記憶監視庁長官として宣言する。記憶管理法は、即刻廃止! すべての国民に、記憶の自由を返還する!」
カインも白衣を脱ぎ捨てて立ち上がった。
「思想統制省長官として宣言する。思想統制法は、即刻廃止! すべての国民に、思考の自由を保障する!」
三人の声が重なり合い、謁見の間に響いた。
それは、帝国の根幹を揺るがす反乱宣言だった。
宮殿全体が震動し始める。
政府機能が、完全に麻痺したのだ。
「慶一郎」エレオノーラが彼の手を握る。「記憶皇帝の怒りが……来ます」
天井から、巨大な魔法陣が現れた。
その中央に、一人の影がゆっくりと降りてくる。
記憶皇帝——アルカディウス・セレニウスの登場だった。
彼の周囲には、無数の記憶の欠片が渦巻いている。それは帝国全土から奪われた、数百万人分の記憶たちだった。
「よくも……よくも私の帝国を……」
皇帝の声は、怒りで震えていた。
「貴様らは、記憶の意味を理解していない。記憶こそが人間の苦痛の根源なのだ!」
慶一郎が前に出る。
調和の炎が、彼の全身を包んだ。
「記憶は苦痛じゃない」
静かだが、確固たる意志を込めた声だった。
「記憶は——愛そのものだ」
最終決戦が、始まった。




