光と影の晩餐(第2部 / 長官たちの過去)
調和の炎に包まれた厨房から、香りが立ち上がった。
それは単なる料理の香りではなく——記憶そのものの香りだった。
甘く、懐かしく、胸の奥を締め付けるような、人生の断片を呼び覚ます芳香。バター、香草、焼きたてのパン、母の手のぬくもり、子供の笑い声——無数の記憶が香りとなって、謁見の間を満たしていく。
「これは……」
エリーザの声が震えた。
彼女の目から、一筋の涙が頬を伝い落ちた。その涙は床に落ちる前に、小さなダイヤモンドのように煌めいて見えた。
慶一郎の手が、最後の仕上げに向かう。
皿の上に乗せられたのは、シンプルなオムレツだった。だがその表面は黄金色に輝き、まるで太陽の光を宿しているかのような暖かさを放っている。
エレオノーラの天使の力が、その料理に静かに宿っていた。愛と希望の光が、料理の内側から溢れ出している。
「完成だ」
慶一郎が振り返る。
三人の長官たちの表情は、既に変わり始めていた。先ほどまでの威圧的な雰囲気は消え、代わりに困惑と——かすかな恐怖が浮かんでいた。
それは、自分たちの中で何かが蘇りつつあることへの恐怖だった。
「エリーザさん」
慶一郎が皿を差し出す。
「これを、食べてみてください」
エリーザの手が震えていた。フォークを握ることすら困難なほどに。
「私は……私は……」
彼女の声は掠れていた。まるで長い間使われていなかった楽器のように。
「大丈夫」エレオノーラが優しく微笑む。「怖がることはありません。あなたの心が、帰る場所を覚えているだけです」
エリーザがフォークでオムレツを切る。
その瞬間、半熟の黄身がとろりと流れ出した。黄金色の液体は皿の上に小さな池を作り、それはまるで液体の太陽のように輝いた。
一口。
エリーザがその料理を口に運んだ瞬間——
世界が、変わった。
彼女の瞳が見開かれ、その奥で何かが弾けるように光った。
そして——記憶が、奔流となって蘇った。
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『——エリー、上手にできたね』
母の声だった。
八歳のエリーザが、初めて作ったクッキーを褒められて、頬を染めている。小麦粉だらけのエプロン、火傷した指先、でも心は喜びで満たされていた。
『料理って、魔法みたいね、お母さん』
『そうね、エリー。料理は人を幸せにする魔法よ』
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『——今日のスープ、最高だったよ、エリーザ』
恋人の声だった。
二十歳のエリーザが、初めて彼のために作った手料理。ぎこちなくて、塩加減も失敗したけれど、彼は最後の一滴まで飲み干してくれた。
『君の料理を食べていると、どんな疲れも吹き飛ぶんだ』
『もう、大げさなんだから』
でも、心の中では飛び上がるほど嬉しかった。
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『——ママの料理、世界一美味しい!』
娘の声だった。
結婚して、母になったエリーザ。小さな娘が、自分の作ったオムレツを頬張りながら笑っている。
その笑顔を見ているだけで、世界中の宝物を手に入れたような気持ちになった。
『ありがとう、ミア。ママも、あなたのために作るのが一番幸せよ』
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そして——すべてが崩れた日。
帝国が料理を法律で管理すると宣言した日。
『危険思想を植え付ける料理は禁止する。エリーザ・モンティニ、あなたは料理検閲局の長官に任命される』
愛する夫は記憶奴隷にされた。
愛する娘は思想矯正施設に送られた。
そして自分は——人々から料理の喜びを奪う役目を押し付けられた。
『もし任務を拒否すれば、家族の記憶を完全に消去する』
選択肢はなかった。
家族を守るために、自分自身の魂を売り渡すしかなかった。
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「……うああああああああああ!」
エリーザの絶叫が、謁見の間に響き渡った。
彼女は床に膝をつき、両手で顔を覆って慟哭した。三十年間封印されていた感情が、すべて一度に解放されたのだ。
「私は……私は何をしていたの……!」
涙が止まらない。それは悔恨の涙であり、解放の涙でもあった。
「ミア……ミア、ごめんなさい、ごめんなさい……!ママは、ママは料理が好きだったのに……人を幸せにしたかっただけなのに……!」
慶一郎がそっと彼女の前に膝をつく。
「エリーザさん」
優しい声だった。責めるでもなく、憐れむでもなく——ただ、理解を示す声だった。
「あんたは悪くない。大切なものを守ろうとしただけだ」
「でも……でも私は……」
「今からでも遅くない」慶一郎が手を差し伸べる。「あんたの本当の料理を、また作ってみませんか?」
エリーザが顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった顔だったが、その目には——久しぶりに、希望の光が宿っていた。
だが、その時。
「……感動的な再会劇だな」
冷たい声が響いた。
ヴァルガスだった。彼はまだ立ったまま、表情を変えずに二人を見下ろしていた。
「だが、一人改心したからといって、状況が変わるわけではない」
彼の手には、黒い短剣が握られていた。それは記憶を物理的に切り裂く魔法武器——記憶ブレードだった。
「ヴァルガス長官……」エリーザが震え声で呟く。
「君も所詮は弱い人間だったということだ、エリーザ」ヴァルガスが短剣を構える。「だが私は違う。私にとって記憶など——」
彼の声が、わずかに震えた。
「記憶など……不要なものだ」
慶一郎は立ち上がった。ヴァルガスの瞳の奥に、エリーザと同じ痛みを見つけたからだ。
「ヴァルガスさん」
静かに呼びかける。
「あんたにも、大切な記憶があるんじゃないか?」
「黙れ」
ヴァルガスの記憶ブレードが、慶一郎に向けられる。
「私の記憶を探ろうとするな。私は——私はもう、思い出したくないんだ……」
その声は、悲鳴のようだった。
慶一郎の胸の奥で、調和の炎がさらに強く燃え上がった。今度は、ヴァルガスという男の心に眠る痛みに反応して。
「思い出したくない記憶があるのは分かる」慶一郎が一歩前に出る。「でも、その記憶から逃げている限り、あんたは本当の意味で生きることはできない」
「生きる?」ヴァルガスが嘲笑う。「生きるとは何だ? 愛する者を失い、絶望に沈み、それでも続けなければならない地獄のような日々か?」
その言葉に、慶一郎の胸が締め付けられた。
ヴァルガスもまた、大切な人を失った男なのだ。
「なら、俺にも料理を作らせてくれ」
慶一郎が厨房に向かう。
「あんたの痛みを癒す料理を」
「無駄だ」ヴァルガスが首を振る。「私の心は既に凍りついている。どんな料理も——」
だが、慶一郎は既に動き始めていた。
包丁を握る手に、決意が宿る。
第一話の夜、完璧な目玉焼きを焼いた時の集中力。そしてエレオノーラとの愛が生み出した調和の炎。
今度は、失った息子への愛を思い出させる料理を作ろう。
なぜなら——料理とは、愛そのものだから。
どんなに深い絶望も、どんなに硬く閉ざされた心も、本物の愛があれば必ず溶かすことができる。
それが、慶一郎の信念だった。
包丁が食材を刻む音が、再び謁見の間に響いた。
その音は、まるで希望の鐘の音のように、三人の長官たちの心に響いていく。
ヴァルガスの記憶ブレードを握る手が、僅かに震え始めた。
奥で控えているカインの目が、金縁の眼鏡の向こうで細められた。
最後の戦いが、始まろうとしていた。




