光と影の晩餐(第1部 / 長官たちとの料理対決)
記憶宮殿の中は、死の静寂に包まれていた。
大理石の床に響く足音だけが、この巨大な要塞に生命の存在を告げている。天井は見上げるほど高く、そこには無数の記憶の欠片が宙に浮遊していた。
それは美しくもあり、恐ろしくもあった。
家族の笑顔、恋人の涙、子供の無邢な歌声——奪われた記憶たちが、まるで蝶のように舞い踊っている。だがその光は冷たく、触れれば消えてしまいそうな儚さを湛えていた。
「……これが、皇帝の築いた世界か」
慶一郎の呟きが、石の壁に吸い込まれる。
右手でエレオノーラの手を握り、左手には僅かに震える包丁を握りしめていた。調和の炎は今も彼の胸の奥で燻り続けているが、この空間では何かに抑圧されているような重苦しさを感じる。
「大丈夫よ、慶一郎」
エレオノーラの声は、いつもの優しさを保っていた。だが慶一郎には分かる。彼女もまた、この場所の異質さに心を痛めていることを。
天使である彼女にとって、記憶を奪われた魂たちの嘆きは、肌を刺すような痛みとなって伝わってくるのだ。
レネミア、マリエル、サフィ、カレン、ナリ、アベル——仲間たちは既に宮殿の各所に散らばって、それぞれの任務を遂行している。
ザイラスとリーザは下層階で帝国兵たちと交戦中。ガルス率いる元帝国兵部隊は外郭で陽動作戦を続けている。
そして慶一郎とエレオノーラは、記憶宮殿の心臓部——皇帝の待つ最上階を目指していた。
しかし。
「……来たな」
広大な謁見の間に足を踏み入れた瞬間、慶一郎の背筋に戦慄が走った。
そこには、三つの影がぽつりと立っていた。
記憶監視庁長官ヴァルガス。
料理検閲局長官エリーザ。
思想統制省長官ドクター・カイン。
帝国の三大長官——彼らが、最後の砦として立ちはだかっていたのだ。
「慶一郎……」エレオノーラが小さく身を寄せる。
謁見の間は異様な空気に満ちていた。床には巨大な魔法陣が刻まれ、その中央に古式ゆかしい厨房設備が設置されている。まるで、この瞬間のために用意されていたかのように。
「待っていたぞ、『調和の炎』の使い手よ」
ヴァルガスが口を開いた。その声は低く、どこか疲れ切ったような響きを含んでいる。
彼は痩身の男で、灰色がかった髪を後ろに撫でつけていた。目の下には深いクマが刻まれ、まるで長い間眠れぬ夜を過ごしてきたかのようだった。
「皇帝陛下は仰せである。『その男の料理の力、この目で確かめよ』と」
「料理……対決、ということか?」
慶一郎の問いに、今度はエリーザが答えた。
「そうよ。あなたが本当に、記憶を呼び覚ます料理を作れるのか——我々三人が、順番に試させてもらうわ」
エリーザは中年の女性で、かつては美しかったであろう面影を残していた。だが今の彼女の顔には、何かを諦めたような、深い絶望の影が差している。
その瞳の奥で、僅かに光るものがあった。それは恐らく——かつて料理を愛していた時代の、名残りだった。
「ふ……面白い実験になりそうだ」
三人目、ドクター・カインが不気味な笑みを浮かべる。
彼は白衣を纏った壮年の男で、金縁の眼鏡の奥の目が異様な光を放っていた。その手には注射器が握られており、中には得体の知れない薬液が入っている。
「人の記憶を操作することこそが、人類の進歩だと信じている。だが君の料理が本当に記憶を蘇らせるなら……興味深いデータが取れるだろうね」
三人の長官たちから発せられる威圧感に、慶一郎の全身に冷や汗が流れた。
これまで戦ってきた帝国兵とは格が違う。彼らは帝国の中枢にいる者たち——記憶操作の専門家であり、無数の人々の心を踏みにじってきた張本人たちだった。
だが、それ以上に慶一郎を動揺させたのは、彼らの瞳の奥にちらりと見えた"何か"だった。
それは——痛み、だった。
ヴァルガスの疲れ切った表情。
エリーザの諦めにも似た絶望。
カインの狂気じみた探求心の裏にある、満たされない空虚感。
彼らもまた、何かを失った人間なのかもしれない。
「……分かった」
慶一郎がゆっくりと頷く。
「受けて立とう。だが、一つだけ条件がある」
「ほう?」ヴァルガスが眉を上げる。
「もし——もし俺の料理で、あんたたちの記憶が蘇ったら……」
慶一郎は三人を真っ直ぐに見据えた。
「その時は、この国の人々にも同じ権利を与えてくれ。記憶を取り戻す権利を」
謁見の間に、静寂が降りた。
三人の長官たちは、しばらく無言で慶一郎を見つめていた。やがて、ヴァルガスが小さくため息をついた。
「……君は、本当に面白い男だな。我々を改心させるつもりか?」
「改心じゃない」慶一郎が首を振る。「ただ、思い出してほしいんだ。あんたたちが——本当は何を大切にしていたのかを」
エレオノーラが慶一郎の腕にそっと手を置く。無言の励ましだった。
「では、始めよう」
エリーザが立ち上がる。彼女の手には、真っ黒に焦げた古いフライパンが握られていた。
「私が最初よ。『料理検閲局』の長官として——あなたの『違法料理』を、この目で確かめさせてもらうわ」
彼女の声には、どこか自嘲的な響きがあった。まるで、自分自身を責めているかのような。
「私の料理は『法の料理』。帝国の法律に則り、感情を排除し、記憶を封じる——完璧に『安全』な料理よ」
エリーザがフライパンを火にかける。その炎は青白く、まるで生命力を感じさせない無機質な色をしていた。
彼女が取り出したのは、見るからに味気ない食材たち。色素も香辛料も一切使われていない、灰色がかった塊ばかりだった。
「これが、帝国認可食材。栄養価は完璧で、害もない。だが……」
エリーザの手が、わずかに震えていた。
「味も、記憶も、何も呼び起こさない。それが『正しい』料理……そう、教えられてきたの」
調理が始まる。
だがそれは、慶一郎がこれまで見てきたどの料理とも違っていた。機械的で、冷たく、まるで魂が込められていないような手順ばかりだった。
香りも立たない。音も立たない。
ただ、食べ物の形をした"何か"が作られていくだけだった。
「これが……料理?」
エレオノーラが呟く。その声には、悲しみが滲んでいた。
やがて、エリーザの料理が完成した。
皿の上にあるのは、灰色の塊。それ以外に形容しようがないものだった。
「どうぞ」エリーザが皿を差し出す。「帝国認可料理『記憶封印No.7』よ。これを食べれば、あなたの危険な記憶も、すべて安全に処理される」
慶一郎は皿を受け取った。
それは、とても重かった。物理的な重さではない。その料理に込められた、諦めと絶望の重さだった。
一口、食べてみる。
——何も、感じなかった。
味がないのではない。味という概念そのものが、存在していないのだ。まるで空気を食べているような、存在しないものを口にしているような感覚。
だが、その瞬間——
慶一郎の胸の奥で、調和の炎がほのかに光った。
それは怒りではなく、哀れみでもなく——深い、深い悲しみだった。
「エリーザさん」
慶一郎が顔を上げる。
「あんたは……昔、料理が好きだったんじゃないか?」
エリーザの体が、ピクリと震えた。
「な、何を……」
「この料理に込められているのは、料理への憎しみじゃない」慶一郎が静かに言った。「料理を愛していたからこそ生まれる、諦めの味だ」
慶一郎が立ち上がる。
厨房設備の前に向かい、食材を手に取る。帝国認可食材ではない、彼らがレジスタンスとして持ち込んだ、本物の食材たちだった。
「俺にも、作らせてもらう」
包丁を握る手に、力が宿る。
調和の炎が、今度こそ本格的に燃え上がった。
慶一郎の脳裏に、第一話の記憶が蘇る——深夜の厨房で、たった一人で完璧な目玉焼きを焼いていた、あの夜のことを。
だが今は違う。一人じゃない。
エレオノーラがいる。仲間たちがいる。そして——目の前には、救うべき人たちがいる。
「俺の料理は……」
包丁が食材を刻む。その音が、まるで心臓の鼓動のように謁見の間に響いた。
「人を繋ぐ料理だ」
調和の炎が、厨房全体を包み込む。
エリーザが、ヴァルガスが、カインが——皆、その光に見とれていた。
それは、彼らが長い間忘れていた"何か"を思い出させる、暖かな光だった。




