統制の鎖(第1部 / 記憶皇帝の影)
地下組織の隠れ家で一夜を過ごした慶一郎たちは、夜明け前の薄暗い時間に目を覚ました。地下深くにあるにも関わらず、湿った冷気が肌にぺとりと張り付き、石造りの壁からは絶えず水滴が滴り落ちている。その音が洞窟内に反響し、まるで巨大な心臓の鼓動のように響いていた。
慶一郎は調和の炎を胸に秘めながら、その制御に苦労していた。昨夜の暴発以来、炎は不安定さを増しており、わずかな感情の変化にも敏感に反応してしまう。額には緊張の汗がにじみ、それが冷たい地下の空気に触れてひやりとした感覚を与えていた。
「お気づきですか」
地下組織のリーダーが重々しい口調で告げた。
「昨夜から帝国全体の雰囲気が変わっています。記憶皇帝陛下がお怒りになられているのです」
その言葉と同時に、隠れ家全体が微かに震動した。それは地震ではない。もっと恐ろしい何かが帝国の中心部で起きているのだ。
「あれは……」
リーザが元官僚としての経験から、その震動の意味を理解した。顔は青ざめ、かつて帝国で働いていた時の恐怖が蘇ってきているようだった。
「記憶皇帝の怒り。皇帝が激怒した時、帝国全土に精神的な圧力が放射されるの」
エレオノーラが天使の力で、その圧力を感じ取っていた。美しい顔に苦悶の表情が浮かび、額から汗が流れ落ちている。
「とてつもない悪意……これまで感じたことのない邪悪な力です」
隠れ家の上層部から、街の様子を偵察していた組織の一員が駆け下りてきた。その顔は恐怖で歪んでいる。
「大変です! 街中の人々が苦しんでいます!」
慶一郎たちは急いで上に向かった。地上に近い見張り所から外を覗くと、想像を絶する光景が広がっていた。
街を歩く住民たちが、皆一様に頭を抱えて苦しんでいるのだ。記憶を管理されているはずの彼らが、なぜか激しい痛みに襲われている。
「記憶皇帝の怒りが、管理されていた記憶にも影響を与えています」
ナリが科学者として分析を試みたが、その声は震えていた。
「これは理論を超えた現象です」
街の中央部、記憶宮殿の方向から、血のように赤い光が立ち上っていた。その光は空を染め、見る者に本能的な恐怖を与えている。光に照らされた雲は不気味にうねり、まるで巨大な悪魔の顔のような形を作っていた。
「皇帝の怒りが具現化している……」
マリエルが聖職者として、その超自然的な現象を感じ取っていた。彼女の持つ十字架が微かに震え、神聖な力が邪悪なものに反応しているようだった。
その時、隠れ家全体に響き渡る声があった。それは人間の声ではない。もっと深く、もっと恐ろしい何かの声だった。
『我が帝国に反逆する者たちよ』
記憶皇帝の声が、物理的な音ではなく、直接脳内に響いてくる。その声を聞いた瞬間、全員が激しい頭痛に襲われた。
『貴様らの愚かな行為により、我が完璧な秩序が乱されている』
サフィが小さく悲鳴を上げて膝をついた。アベルが慌てて彼女を支えるが、自身も痛みに顔を歪めている。
『特に、調和の炎とやらを持つ愚か者よ。貴様の存在は我が帝国にとって最大の脅威だ』
慶一郎の胸の炎が激しく反応した。皇帝の声に呼応するように、炎は制御を失いそうになる。だが、エレオノーラが天使の力で必死に炎を抑制していた。その努力で、彼女の顔は苦痛に歪んでいる。
『我はすべてを知っている。貴様らの居場所も、計画も、そして心の奥底の秘密も』
その瞬間、リーザが突然苦しみ始めた。彼女の目が見開かれ、まるで何かに操られているかのような表情になる。
「リーザ!」
ザイラスが彼女に駆け寄ったが、リーザは彼を見つめながら、自分の意志ではない声で話し始めた。
「私は……料理検閲官だった……多くの家族を……破滅させた……」
リーザの口から、彼女の過去の記憶が強制的に再生されていく。それは記憶皇帝が彼女の心を遠隔操作しているのだ。
「やめて……」
リーザが自分の意志で抵抗しようとするが、記憶の流れは止まらない。
「市民番号34782番、家族写真所持により記憶消去……市民番号45691番、手作り料理により追放処分……市民番号……」
彼女の口から次々と、自分が破滅させた人々の記録が流れ出る。その一つ一つが、リーザの心に深い傷を刻んでいた。
「私は……怪物だった……」
リーザの頬に涙が流れ落ちた。それは後悔と自己嫌悪の涙だった。
『そうだ。貴様らは皆、罪深き存在だ。我の支配に逆らう資格などない』
記憶皇帝の声が再び響き、今度はザイラスにも記憶の強制再生が始まった。
「俺は……帝国の犬だった……命令に従って……無実の人々を……」
ザイラスの記憶にも、彼が帝国時代に犯した罪が映し出される。記憶監視庁の幹部として、多くの人の記憶を奪い、家族を引き裂いてきた過去が鮮明に蘇ってくる。
「許してくれ……」
ザイラスが膝をつき、両手で顔を覆った。贖罪の旅に出たとはいえ、過去の罪の重さは彼の心を今でも苛んでいた。
慶一郎は二人の苦しみを見て、胸が締め付けられた。調和の炎が悲しみに共鳴し、温かな光を放とうとする。だが、その光は記憶皇帝に感知される危険があった。
「エレオノーラ……」
慶一郎が天使に助けを求めると、彼女は苦痛に耐えながらも微笑んだ。
「大丈夫です。私が皆さんの心を守ります」
エレオノーラが天使の力を最大限に発揮し、記憶皇帝の精神攻撃から仲間たちを守ろうとした。だが、その代償として、彼女自身が激しい苦痛に襲われる。
『天使よ。貴様の力も我の前では無力だ』
記憶皇帝がエレオノーラの存在に気づき、直接攻撃を仕掛けてきた。エレオノーラの体が激しく震え、苦痛の呻き声が漏れる。
「やめろ!」
慶一郎が叫んだ瞬間、調和の炎が暴発しそうになった。だが、それを感じ取ったレネミアが王女としての威厳で立ち上がった。
「皆さん、心を強く持ってください。私たちは負けません」
王女の言葉に、仲間たちの心が少しずつ落ち着いてきた。カレンとアベルが騎士として、リーザとザイラスを支える。
「過去の罪は確かにある。でも、今は償いのために戦っているじゃないか」
カレンの力強い言葉に、ザイラスが顔を上げた。
「そうよ、リーザ。あなたは今、人々を救うために戦っている。それが本当のあなたなのよ」
マリエルの優しい言葉に、リーザも涙を拭いながら立ち上がった。
『愚かな絆など、我の力の前では……』
記憶皇帝が再び攻撃を仕掛けようとした時、地下組織のリーダーが古い装置を作動させた。
「記憶遮断結界を展開します!」
隠れ家全体が青い光に包まれ、記憶皇帝の精神攻撃が遮断された。だが、この結界も長くは持たないだろう。
「これで一時的に安全ですが、皇帝の怒りは収まっていません」
リーダーが厳しい表情で告げた。
「我々は今、帝国史上最大の危機に直面しています」
窓の外では、記憶宮殿からの赤い光がますます強くなっていた。そして、その光の中に巨大な影が動いているのが見えた。記憶皇帝が本格的に動き出そうとしているのだ。
「これからが本当の戦いです」
慶一郎が仲間たちを見回した。全員の顔に決意が宿っているのが分かった。
過去の罪に苦しみながらも、それを償うために戦う決意。愛する人を守るための勇気。そして、この世界を変えるという強い意志。
調和の炎が静かに、しかし確実に燃えている。その光は小さくても、決して消えることはない希望の灯火だった。




