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封じられた記憶(第3部 / 記憶奴隷)

夕暮れ時、慶一郎たちは街の郊外にある「記憶回復センター」という建物の前にいた。リーザの情報によると、ここには完全に記憶を奪われた「記憶奴隷」たちが収容されているという。

建物の周囲には高い塀があり、その上には有刺鉄線が巻かれている。まるで監獄のような外観で、近づくだけで圧迫感を感じた。夕日が塀に反射して、血のような赤い光が一行の顔を照らしていた。

「ここが……記憶奴隷たちの収容所」

ナリが科学者としての冷静さを保とうとしていたが、その声は震えていた。

塀の向こうから聞こえてくるのは、人間とは思えない単調な音だった。機械的な足音、意味のない呟き声、そして時折響く空虚な笑い声。それらが混じり合って、まるで悪夢のような音響を作り出していた。

「中に入りましょう」

リーザが元官僚の権限を使って、守衛に偽造の視察許可証を提示した。守衛は機械的にそれを確認し、重い鉄の扉を開けた。

扉が開いた瞬間、異臭が鼻を突いた。それは消毒液と人間の体臭、そして何とも言えない絶望の匂いが混じったものだった。慶一郎の胃が反射的にねじれ、口の中に苦い液体が上がってきた。

建物の内部は、まるで工場のような構造になっていた。長い廊下の両脇には無数の部屋があり、そこに記憶を奪われた人々が収容されている。廊下の床は濡れており、歩くたびにペタペタという音が響いた。その湿気は肌にまとわりつき、不快なべとつきを感じさせる。

「これが記憶奴隷たちの居住区域です」

案内の職員が事務的に説明する。

「彼らは記憶を失ったおかげで、悩みや苦しみから解放されています。帝国の理想的な市民と言えるでしょう」

最初の部屋を覗くと、そこには十数人の人々がただぼんやりと座っていた。彼らは皆、同じ灰色の服を着て、同じ表情をしている。いや、表情というよりも「無表情」だった。

「こんにちは」

慶一郎が試しに声をかけてみた。

記憶奴隷の一人が機械的に顔を向けた。その目には何の光もなく、まるで人形のようだった。

「こんにちは。私の名前は……名前は……」

彼は自分の名前すら思い出せずに、途中で言葉を止めてしまった。

「彼らには名前がありません」

職員が冷たく説明する。

「記憶と共に個人のアイデンティティも除去されています。必要に応じて番号で管理しています」

サフィが小さく嗚咽を漏らした。人間が番号でしか呼ばれないなんて、あまりにも非人道的だった。マリエルが彼女の肩を抱いたが、マリエル自身も涙をこらえるのに必死だった。

次の部屋では、さらに悲惨な光景が待っていた。そこには家族だったと思われる人々がいたが、もう互いを認識することができなくなっていた。

「あなたはどなたですか?」

中年女性が隣に座る男性に尋ねた。

「さあ、でも何か親しみを感じます」

男性も困惑している。

二人は夫婦だったのだろう。左手の薬指には結婚指輪がはめられているが、その意味すら理解していない。愛し合っていた記憶も、一緒に過ごした時間も、すべて奪い取られてしまっていた。

「見てください」

職員が誇らしげに説明する。

「以前は夫婦喧嘩や嫉妬で苦しんでいた彼らも、今では平和に暮らしています。記憶がないおかげで、争いも生まれません」

エレオノーラの美しい顔に深い悲しみが刻まれた。天使として、愛の尊さを誰よりも理解している彼女には、この光景が耐え難いものだった。

「愛する気持ちすら奪うなんて……」

彼女の小さな呟きに、慶一郎の胸の炎が反応した。炎は悲しみと怒りで激しく揺らめき、制御するのが困難になってきた。

さらに奥の部屋では、子供たちが収容されていた。彼らもまた記憶を奪われ、ただぼんやりとしている。子供らしい無邪気さや好奇心は完全に失われ、まるで小さな老人のような表情をしていた。

「この子たちは?」

レネミアが王女としての責任感で尋ねた。

「親が記憶犯罪を犯したため、予防的に記憶を除去しました」

職員の答えに、一同は言葉を失った。

子供たちは親のことも、自分の名前も、好きだった遊びも、すべて忘れてしまっていた。ただ与えられた食事を食べ、与えられた場所で眠るだけの存在になってしまっていた。

慶一郎はもう我慢できなかった。調和の炎が暴走しそうになる中、彼は秘かに小さな料理を始めた。持参していた僅かな食材を使って、愛情を込めた簡単な料理を作る。

「これを食べてみてください」

慶一郎がそっと記憶奴隷の一人に料理を差し出した。

その人物は機械的に口に運んだが、次の瞬間、その目に微かな光が宿った。

「これは……温かい……」

調和の炎の力で、奪われた記憶の一部が蘇り始めたのだ。

「お母さん……お母さんの作ってくれたスープの味……」

その人物が涙を流し始めた。失われていた感情が戻ってきたのだ。

「これは一体……」

職員が困惑している間に、料理の効果は他の記憶奴隷にも広がっていった。彼らの目に次々と光が戻り、失われていた記憶と感情が蘇っていく。

「私の名前は……田中太郎……妻の名前は花子……娘は美咲……」

男性が自分の記憶を取り戻し、家族の名前を思い出していく。

「お父さん!」

子供の一人が記憶を取り戻し、父親に駆け寄った。

施設全体が混乱に陥った。記憶を取り戻した人々が、失われていた家族や友人を探し回っている。涙と歓喜の声が建物中に響き渡った。

だが、その喜びも束の間だった。警報が鳴り響き、記憶監視庁の職員が大挙して押し寄せてきたのだ。

「記憶違反の大規模発生! 緊急事態です!」

職員の叫び声が廊下に響いた。

「逃げなければ!」

リーザが一同に叫んだ。

だが、記憶を取り戻した人々は混乱状態で、まともに避難することができない。慶一郎たちは彼らを見捨てることなど到底できなかった。

「みんな、こちらです!」

カレンが騎士として人々を誘導し始めた。アベルも加わって、混乱する人々を安全な場所へと導いていく。

だが、記憶監視庁の職員たちは容赦なかった。記憶を取り戻した人々を再び拘束し、強制的に記憶を消去しようとしている。

「せっかく戻った記憶を……また奪うつもりなの!」

サフィが怒りと悲しみで叫んだ。

「記憶の無許可復活は重大な犯罪行為です」

職員が冷酷に宣告した。

「直ちに再処理します」

その瞬間、慶一郎の調和の炎が制御を失った。怒りと悲しみが極限に達し、炎が暴発したのだ。

建物全体が炎の光に包まれ、記憶監視庁の職員たちが後退した。だが、この暴発により、慶一郎たちの正体が完全にバレてしまった。

「記憶皇帝に対する反逆者だ!」

「逮捕しろ!」

施設全体に警報が鳴り響き、帝国軍の兵士たちが次々と現れた。慶一郎たちは完全に包囲されてしまった。

だが、記憶を取り戻した人々が立ち上がった。自分たちを救ってくれた恩人を守るために、記憶監視庁の職員に立ち向かっていく。

「この人たちは私たちの恩人です!」

「記憶を返してくれた!」

人々の怒りの声が建物中に響き渡った。だが、帝国の武力は圧倒的で、丸腰の民衆では太刀打ちできない。

「急いで脱出しましょう!」

ザイラスが贖罪の意識で、自らが囮になることを申し出た。

混乱の中、慶一郎たちは必死に逃走を図った。だが、帝国全体に彼らの存在が知られてしまった今、もう安全な場所などないのかもしれなかった。

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