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封じられた記憶(第1部 / 料理検閲局)

夜明けと共に、帝国の街には機械的な目覚ましサイレンが響き渡った。その音は人間の耳には不快で、まるで工場の警報のような冷たさを持っている。慶一郎たちは宿の部屋で、偽装した身分での行動開始を余儀なくされていた。

朝の空気は昨夜の消毒薬臭がさらに濃くなり、肌にぴとりと張り付くような湿度を含んでいた。それは自然な朝露ではなく、化学薬品によって調整された人工的な湿気だった。慶一郎の額に薄っすらとかいた汗が、その異常な空気に触れてべたつきを感じさせる。

「今日は料理検閲局を視察します」

リーザが宿の受付で、偽造した視察許可証を提示した。受付係は機械的にそれを確認し、無表情で頷く。

「市民番号47291番から47297番、料理検閲局への立ち入りを許可します。規則違反は即座に処罰の対象となります」

街を歩く途中、慶一郎は調和の炎が胸の奥で不安げに震えているのを感じていた。炎は帝国の魔法的監視に反応し、まるで捕食者の気配を察知した小動物のように身を縮めていた。

料理検閲局の建物は、街の中でも特に威圧的な存在感を放っていた。黒い石で造られた巨大な建造物で、その表面は常に湿っており、触れると冷たく粘つくような感触があった。建物の周囲には鉄の柵が巡らされ、その柵には電流が流れているのか、時折ジリジリという音が響いていた。

「あれが料理検閲局……」

サフィが小さく呟いたが、その声は恐怖で震えていた。

建物の入り口には長い列ができていた。料理人や一般市民が、手に料理や食材を持って順番を待っている。だが、その列に並ぶ人々の表情は皆、死刑台に向かう囚人のような絶望に満ちていた。

列の最前列では、検閲官が厳格な検査を行っていた。料理の匂いを嗅ぎ、見た目を確認し、時には実際に食べて味を調べている。その検閲官の顔は仮面のように無表情で、人間というより機械に近い冷酷さがあった。

「この料理には『母への懐かしさ』が込められています」

検閲官が冷たい声で宣告した。

「記憶宿り料理禁止法第3条違反です。即座に没収し、作成者は記憶修正処置を受けてもらいます」

その瞬間、列に並んでいた中年女性が青ざめた。

「お待ちください! これは母のレシピを思い出して作っただけで……」

「思い出すこと自体が違法行為です」

検閲官が女性の頭に手を置くと、彼女の瞳から光が消えていく。記憶を抜き取られているのだ。女性の体がぐったりとして、まるで糸の切れた人形のように力なく立っている。

「記憶修正完了。次の方、どうぞ」

その光景を見て、列に並ぶ他の人々は震え上がった。だが、誰も列から離れることはできない。料理を検閲に出さないこと自体が犯罪なのだ。

慶一郎の胸の炎が激しく揺らめいた。料理人としての魂が、この非道な行為に激しい怒りを感じている。だが、その感情を表に出すことはできない。ここで正体がバレれば、全員が危険にさらされる。

「見学者として入りましょう」

リーザが一行を促した。建物の内部は外観以上に恐ろしい光景が広がっていた。

廊下の両脇には「記憶宿り料理禁止法」の条文が細かく掲示されている。その内容は想像を絶するものだった。

『第1条:料理に感情や記憶を込めることを一切禁止する』

『第2条:家族や故郷を思い起こさせる料理は重罪とする』

『第3条:季節感や自然への愛着を表現した料理は危険思想とみなす』

『第4条:手作りの温かみを感じさせる料理は社会秩序を乱す』

『第5条:食べる人を幸せにしようとする意図は最も重い犯罪である』

マリエルが読み上げながら、その内容にぎょっとした。

「食べる人を幸せにすることが犯罪……?」

ナリが科学者としての冷静さで分析する。

「料理を通じた人間同士の絆や感情的なつながりを完全に断ち切ろうとしているのね。これは単なる管理を超えて、人間性そのものの否定よ」

廊下の奥からは、うめき声や泣き声が聞こえてきた。記憶を奪われた人々の声だった。その音は建物全体に反響し、まるで地獄の底から響いてくる悲鳴のようだった。

「見学ルートはこちらです」

案内の職員が機械的に告げる。彼らは見学者用の通路を通って、検閲の現場を上から見下ろすことができる場所に案内された。

そこで目にしたのは、さらに恐ろしい光景だった。巨大な検閲室では、数十人の検閲官が流れ作業で料理を検査している。料理は機械的にチェックされ、少しでも「記憶の匂い」がすると判定されれば即座に廃棄される。

廃棄される料理の山を見て、慶一郎の心は激しく痛んだ。それらの料理には、作った人の愛情や想いが込められていたはずなのに、それがゴミのように捨てられている。

「あそこで記憶検査をしています」

職員が指差した先では、記憶を奪われた人々が次々と運ばれてきていた。彼らは皆、生きているはずなのに既に死んでいるような空虚な表情をしている。

検査官が専用の装置を使って、彼らの記憶レベルを測定していた。

「市民番号34526番、記憶純度98%。基準値をクリアしています」

「市民番号34527番、記憶純度89%。追加処置が必要です」

記憶純度が基準値を下回った人は、さらに奥の部屋に連れて行かれる。そこから聞こえてくるのは、機械的な音と時折響く悲鳴だった。

エレオノーラが天使の力で、この場の悲しみと苦痛を感じ取っていた。その美しい顔に深い苦悩が刻まれ、涙がこぼれそうになる。

「こんな場所があってはならない……」

だが、その瞬間、検閲官の一人がこちらを鋭く見つめた。エレオノーラの天使としての気配を感じ取ったのかもしれない。

「見学者の中に異常な記憶反応があります」

検閲官の冷たい声が響いた。

慶一郎の血の気が引いた。このままでは正体がバレてしまう。

「大丈夫です」

リーザが咄嗟に機転を利かせた。

「この者は記憶障害者です。感情が不安定になることがあります」

検閲官はしばらくリーザを見つめていたが、最終的に納得したようだった。

「記憶障害者なら仕方ありません。ただし、暴走しないよう注意してください」

その場は何とか切り抜けたものの、一同の緊張は極限まで高まっていた。調和の炎も慶一郎の胸の奥で不安げに震え続けている。

見学の最後に案内されたのは、「記憶博物館」だった。そこには過去に没収された「記憶宿り料理」のサンプルが展示されている。だが、それらはすべて防腐剤で固められ、もはや食べ物ではなく単なる展示物と化していた。

「これらの料理がいかに危険な記憶を呼び起こすかを学習してください」

案内職員が説明する。

展示されているのは、どれも温かみのある家庭料理だった。母親が子供のために作った弁当、恋人同士で作った手作りクッキー、祖母の味を再現したスープ。それらすべてが「危険な記憶」として処理されている。

慶一郎は拳を握りしめた。これらの料理に込められた愛情や思い出を、帝国は「危険」と呼んでいる。人間らしさそのものを否定しているのだ。

「見学は以上です。帝国の素晴らしい管理システムをご理解いただけたでしょうか」

職員の機械的な問いかけに、一同は無言で頷くしかなかった。

建物を出る時、慶一郎の肌に冷たい汗が流れた。それは恐怖と怒りが混じった、べとついた不快な汗だった。調和の炎も疲弊しているのか、普段より弱々しく揺らめいている。

「これが帝国の本当の恐ろしさ……」

サフィが震え声で呟いた。

だが、彼らが料理検閲局を出た時、さらに恐ろしい事実が待ち受けていた。建物の出口で、検閲官の一人が彼らをじっと見つめていたのだ。その目には疑念の色が浮かんでいた。

「あの見学者たちは誰だったのか?」

検閲官が同僚に問いかける声が聞こえてくる。

「急ぎましょう」

リーザが小声で促した。

一行は街の人混みに紛れて歩いていたが、背後から追跡されているような気配を感じていた。帝国の監視網は想像以上に厳重で、一度疑われれば逃れることは困難なのかもしれない。

慶一郎の胸の炎が再び激しく震えた。それは恐怖からではなく、この世界を変えなければならないという強い決意からだった。料理に込められた愛情や記憶を「犯罪」と呼ぶ世界など、絶対に許すことはできない。

街角で、一人の老人が隠れるように小さなパンを食べているのを見かけた。そのパンは明らかに手作りで、老人の顔には僅かな幸せが浮かんでいた。だが、その瞬間、記憶監視庁の職員が現れた。

「市民番号61847番、記憶違反の疑いで連行します」

老人は必死に首を振ったが、無情にも黒い車に押し込まれていく。

その光景を見た慶一郎は、心の底から誓った。必ずこの世界を変えてみせる。料理の喜びと、そこに込められた愛を取り戻してみせる。

だが、その決意とは裏腹に、彼らを取り巻く状況は刻一刻と悪化していた。

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