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境界線を超えて(第4部 / 偽装潜入)

食堂の扉を開けた瞬間、慶一郎たちは言葉を失った。店内は墓場のような静寂に支配され、客たちは皆、同じ無表情で同じ食事を黙々と口に運んでいる。誰も会話をせず、ただ機械的に食べ続けているだけだった。咀嚼音さえも揃っており、まるで工場の機械が動いているような単調なリズムが響いていた。

「いらっしゃいませ。本日のメニューは『記憶なし食事』です」

店員の女性が無感情な声で告げる。彼女もまた、表情というものを完全に失っていた。その瞳を見ると、まるで人形に魂を入れ忘れたかのような虚無感があった。

「記憶なし食事?」

慶一郎が困惑して問い返すと、店員は教科書を読むような口調で、抑揚のない声で説明した。

「記憶を刺激する一切の要素を排除した、帝国認定の安全な食事です。味、香り、食感、すべてが標準化されており、余計な記憶を呼び起こすことはありません。栄養バランスは帝国栄養学会が完璧に計算しております」

テーブルに運ばれてきたのは、灰色がかった粥のような食べ物だった。見た目、香り、すべてが無個性で、食欲をそそるものは何もない。それはもはや「食べ物」ではなく、単なる「栄養補給物質」だった。

慶一郎が恐る恐る一口食べてみると、その瞬間、彼の心は深い絶望に襲われた。それは味も香りも、食べる喜びも、誰かを想う気持ちも、何もかもが剥ぎ取られていた。まるで魂を抜かれた料理――いや、これを料理と呼ぶことすら冒涜だった。

調和の炎が胸の奥で悲痛に震えた。この炎に込められた無数の美味しい記憶、愛情のこもった料理、家族との温かい食卓――それらすべてが否定されているような感覚だった。

「これが……この国の現実」

慶一郎の震え声に、仲間たちも言葉を失った。料理人としての誇りと使命感が、激しい怒りとなって彼の心を焦がしていく。

隣のテーブルでは、母親らしき女性が幼い子供に食事を与えていた。だが、その光景には愛情のかけらも見当たらない。母親は機械的にスプーンを子供の口に運び、子供は無表情にそれを飲み込んでいる。

「ママ、これ美味しくないよ……」

子供が小さく訴えた。その瞬間、慶一郎の心臓が跳ね上がった。まだ記憶を完全に奪われていない子供がいる!

だが、母親は氷のような表情で答えた。

「美味しいかどうかは重要ではありません、市民番号78432番。体に必要な栄養を摂取することが帝国市民の義務です。感情的な反応は記憶違反に該当します」

子供は母親に名前ではなく番号で呼ばれ、小さく震えた。その瞬間、子供の瞳から微かな光が消えていくのが見えた。母親の冷酷な言葉が、最後の人間らしさを奪い取ったのだ。

サフィは涙をこらえることができなくなった。だが、泣くことさえ危険だった。感情を表に出すことは、記憶違反と見なされる可能性があったからだ。

「感情を出してはダメ。すぐに通報されてしまうわ」

リーザが唇を震わせながら小声で警告する。彼女自身も、この光景に心を痛めているのが痛いほど伝わってきた。

エレオノーラが天使の力で、サフィの心を静めようとした。だが、その行為自体にもリスクが伴う。天使の力も、帝国にとっては違法な「記憶を刺激する要素」なのだ。彼女の美しい顔に深い苦悩が刻まれていく。

マリエルが胸元で十字を切ろうとして、慌てて手を止めた。宗教的な行為も禁止されているのだ。神への祈りすら許されない世界で、彼女はどうやって心の支えを見つければよいのか。

「私たちも食事を終えたふりをして、早く出ましょう」

レネミアが王女としての冷静さを保ちながら提案した。だが、その声は震えており、王族として民を守れない無力感に苛まれているのが分かった。

食堂を出ると、街はさらに異様な光景を見せていた。通りの角々に「記憶純度測定器」が設置されており、通行人の記憶レベルを常時監視している。機械が赤い光を放つと、即座に監視庁の職員が駆けつけて対象者を連行していく。

「記憶純度67%、基準値を下回っています」

機械の冷酷な音声が響くと、通りかかった中年男性が青ざめた。

「お待ちください! 私は何も……」

男性の言い訳は最後まで聞かれることなく、黒い車に押し込まれていく。

ナリが科学者としての冷静さで状況を分析しようとしたが、その手は震えていた。

「記憶を数値化して管理する技術……理論的には興味深いですが、これは人間を扱う方法ではありません」

カレンとアベルは騎士として、このような不正義を見過ごすことができずにいた。だが、ここで剣を抜けば、全員が危険にさらされる。その葛藤が二人の表情に深い苦悩として現れていた。

「あそこに宿があるわ」

リーザが指差した先には、「帝国標準宿泊施設第4782号」という看板のある建物があった。

「今夜はあそこで休んで、明日からの計画を練りましょう」

宿の受付では、徹底的な身元確認が行われた。記憶レベルの測定、感情指数の検査、過去24時間の行動記録の提出。一つでも基準に満たなければ、即座に拘束される仕組みになっている。

「市民番号をお示しください」

受付係が機械的に要求する。リーザが事前に用意していた偽造番号を提示すると、機械がしばらく分析した後、緑の光を点灯させた。

「宿泊を許可します。規則書をご確認ください」

手渡された規則書は、まるで刑務所の規則のようだった。

『夢の内容は毎朝詳細に報告すること』

『就寝前に記憶抑制薬を服用すること』

『睡眠中の言動は24時間監視されています』

『家族や友人の名前を口にすることを禁止します』

『感情的な表現は即座に通報の対象となります』

『私的な記憶の回想は重大な犯罪行為です』

部屋は完全に標準化されており、個性というものが一切排除されていた。壁は無機質な白色で、家具は最低限の機能しか持たない。窓には鉄格子がはめられ、まるで監獄の独房のようだった。

部屋に入ると、一同はようやく緊張を解くことができた。だが、その安堵も束の間だった。壁に設置された監視カメラが、赤い光を点滅させながら彼らを見つめているのだ。

「話すことも危険ね」

リーザが口の形だけで告げた。音声も録音されている可能性が高い。

慶一郎は窓の外を見つめた。街は夜になっても完全に静寂で、人々の営みというものが感じられない。まるで巨大な墓場のような街だった。遠くには記憶監視庁の塔がそびえ立ち、その頂上から放たれる赤い光が街全体を照らしている。

だが、その夜、彼らは更なる恐怖を体験することになる。隣の部屋から聞こえてきた、記憶を失った夫婦の会話だった。

「あなたはどなたでしたっけ?」

女性の困惑した声が壁越しに聞こえてくる。

「さあ、でも一緒に住んでいるということは、何かの関係があるのでしょうね」

男性も同じように混乱している。

「そうですね。でも思い出せません。それで良いのですよね?」

「はい、記憶は帝国が管理してくれますから。私たちが覚えておく必要はありません」

愛し合っていたはずの夫婦が、互いを見知らぬ他人として扱っている。結婚指輪をはめているのに、その意味すら理解していない。その事実が、慶一郎たちの心に重くのしかかった。

さらに恐ろしいことに、廊下を歩く音がした。夜間巡回の監視員が、各部屋の住人が規則を守っているかチェックしているのだ。

「部屋番号301、記憶抑制薬服用確認完了」

「部屋番号302、睡眠状態良好、夢の内容は明朝聴取予定」

「部屋番号303、心拍数正常、記憶活動なし」

機械的な報告が続く中、慶一郎たちは息を潜めていた。もし彼らの正体がバレれば、即座に記憶を消去され、「記憶奴隷」にされてしまう。

レネミアが王女としての責任感で小声で告げた。

「これは統治ではありません。人々を家畜以下に扱っている……絶対に許すことはできません」

ザイラスが深い後悔を込めて呟いた。

「私もかつて、このシステムの一部だった。どれだけ多くの人を苦しめてきたことか……今こそ、その罪を償う時だ」

深夜になって、さらに衝撃的な事実を知ることになる。隣の隣の部屋から、子供の泣き声が聞こえてきたのだ。

「お母さん、お父さんはどこ? なんで昨日まで一緒にいたお父さんがいないの?」

子供の純粋な疑問に、母親が冷酷に答える。

「静かにしなさい、市民番号95847番。そのような記憶は禁止されています。あなたに父親などいません」

「でも、昨日まで一緒にご飯を食べて……」

「記憶抑制薬の効果が不完全のようです。追加投与が必要ですね」

子供の記憶すら薬で消し去ろうとする母親の声に、サフィは小さく嗚咽を漏らした。マリエルが必死に彼女を慰めるが、この現実があまりにも残酷すぎた。

調和の炎が悲しげに揺らめき、エレオノーラの天使の光が微かに震えていた。二人の力も、この絶望的な現実を前に、深い悲しみと怒りを感じているのだった。

窓の外では、記憶監視庁の監視塔が一晩中、街を見張り続けていた。その光が、慶一郎たちの部屋の窓を規則正しく照らしている。まるで、すでに彼らの存在に気づいているかのように。

「明日は料理検閲局に向かうわ」

リーザが最後に、口の形だけで告げた。

「そこで、この国の本当の恐ろしさを知ることになるでしょう」

慶一郎は拳を握りしめた。調和の炎が静かに、しかし確実に燃えている。怒りと悲しみ、そして強い決意が炎に込められていた。

「俺たちは必ずこの世界を変える」

心の中で誓いながら、彼は仲間たちを見回した。全員の瞳に、同じ決意が宿っているのが分かった。

この絶望的な世界で、愛を奪われ、記憶を奪われ、人間らしさを奪われた人々。だが、まだ希望はある。この炎と仲間たちの絆があれば、必ずこの闇を打ち破ることができる。

そう信じて、彼らは眠りにつこうとした。だが、夢の中でさえ、帝国の監視は続いているのだった。翌朝には、夢の内容を詳細に報告しなければならない。嘘をつけば即座に発覚し、処罰される。

それでも、慶一郎の心の奥底では、調和の炎が決して消えることのない希望の光を灯し続けていた。明日からが本当の戦いの始まりだった。

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