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境界線を超えて(第3部 / 帝国の街並み)

地下水道から這い出た慶一郎たちが最初に感じたのは、鼻を突く消毒薬のような刺激臭だった。それは病院や研究室を連想させる、人間の温もりを化学的に消し去ったような冷たく無機質な匂いだった。

目の前に広がっていたのは、異様なまでに整然とした街並み。建物はすべて同じ高さ、同じ灰色で統一され、まるで巨大な墓石が整然と並んでいるかのようだった。街路は定規で引いたように直線的で、一分の隙もない幾何学的な美しさを持っているが、そこには生命の息づかいが感じられない。

「これが……帝国の街」

サフィが小さく呟いたが、その声は震えていた。

街を歩く住民たちの姿が、一同の背筋を凍らせた。彼らは皆、同じ歩幅、同じ速度で歩いており、表情というものを完全に失っていた。笑顔も怒りも悲しみも、一切の感情が顔から消え去っている。まるで生きた人形が街を練り歩いているかのようだった。

足音さえも揃っている。ペタペタという単調なリズムが街全体に響き、その音が慶一郎たちの心臓の鼓動を不安にさせた。

「おはようございます」

「おはようございます」

「今日も良い天気ですね」

「はい、帝国にとって良い天気です」

「帝国に感謝を」

「帝国に感謝を」

同じ言葉が何度も何度も繰り返され、街全体がまるで一つの巨大な機械になってしまったかのようだった。住民同士が交わす会話は、まるで録音された音声を再生しているかのように感情がない。決められた台本を、決められた通りに発しているだけなのだ。

「記憶を管理されている……」

リーザが震え声で説明する。

「彼らは感情の記憶を奪われ、ただ生きているだけの存在にされているの。見て、あの人たちの目を……」

言われて住民たちの瞳を見ると、そこには光がなかった。まるで魂を抜き取られたような、空虚な眼差しだった。生きているはずなのに、既に死んでいるような恐ろしさがあった。

マリエルが胸元で十字を切った。

「神よ、このような悲劇が……人間がこんな風になってしまうなんて……」

街の中央部には、巨大な政府建築物群がまるで巨人のようにそびえ立っていた。それぞれの建物は黒い石で造られ、窓は小さく、まるで要塞のような威圧感を放っている。

最も高い塔は「記憶監視庁」。その頂上からは赤い光が常に点滅しており、街全体を監視している。まるで巨大な目玉のように、一同を見下ろしているのだ。隣には「料理検閲局」があり、その前には表情のない人々が機械的に列を作っている。

「あそこで、人々の料理が検閲されているのね」

ナリが冷静に分析するが、その声には押し殺した怒りが込められていた。

突然、街中に大音量の放送が響き渡った。スピーカーから流れる声は、人間のものとは思えないほど冷たく機械的だった。

『市民番号00001から99999の皆様にお知らせします。記憶違反者を発見した場合は、直ちに最寄りの監視庁まで通報してください。通報者には栄養配給の追加を行います。記憶違反は帝国の平和を脅かす重大な犯罪です。健全な帝国市民として、相互監視にご協力ください』

その放送を聞いて、住民たちは一斉に周囲を見回した。誰が記憶違反者かを探すかのような、疑いに満ちた視線を向けてくる。だが、その視線にも感情はなく、ただプログラムされた行動をしているだけのように見えた。

「危険だ。すぐにここから離れよう」

カレンが警戒しながら一同を促した。だが、彼女の手は剣の柄を握りしめており、騎士としての怒りを必死に抑えているのが分かった。

街を歩いているうちに、慶一郎たちは更なる恐怖を目の当たりにした。街角で、一人の老人が記憶監視庁の職員に連行されているのだ。

「お願いします! 孫の顔を思い出しただけなんです! 何も悪いことはしていません!」

老人の必死の訴えに、職員は人形のような無表情で答えた。

「市民番号47893番。許可されていない記憶の保持は違法行為です。記憶の修正処置を受けてもらいます」

老人が職員の腕を掴もうとした瞬間、職員は冷酷に老人を突き飛ばした。老人は石畳に激しく倒れ込み、膝から鮮血がにじんだが、周囲の住民は誰も助けようとしない。老人が車に押し込まれる瞬間も、近くを通る女性はただ淡々と買い物袋を提げ、子供たちは無表情に遊び続けている。誰一人視線を向けることさえしなかった。まるで何も見えていないかのように、素通りしていくのだ。

「誰か助けて……私は何も悪いことを……」

老人の弱々しい声が響いたが、その声に応える者は誰もいなかった。

サフィは涙をこらえるのに必死だった。

「ひどい……孫の顔を思い出すことが犯罪だなんて……」

老人はそのまま黒い車に押し込まれ、どこかへと連れ去られていった。車が走り去った後も、老人の血だけが石畳に残っている。それを見た清掃員が機械的に現れ、何事もなかったかのように血を淡々と拭き取っていく。

エレオノーラが優しく、しかし怒りを込めて告げた。

「私たちが必ず、この間違った世界を変えましょう。こんな世界は絶対に許せません」

レネミアが王女としての威厳で静かに宣言した。

「これは統治ではありません。人々を家畜のように扱っている……王女として、人として、絶対に許すことはできません」

街の至る所に設置されたスピーカーからは、定期的に放送が流れ続けていた。

『記憶は国家が管理します。個人的な記憶の保持は禁止されています。感情的な記憶は社会の秩序を乱す危険な要素です。健全な市民生活のため、記憶の管理にご協力ください』

慶一郎は胸元の調和の炎が激しく震えるのを感じた。炎の温度が上がり、まるで怒りで爆発寸前のように熱を帯びている。胸の奥が締め付けられ、深呼吸しても鎮まらなかった。この炎もまた、街の悲惨な現状に心を痛め、怒りを燃やしているのだろう。

「落ち着け……」

慶一郎が自分に言い聞かせた。ここで怒りを爆発させれば、全員が危険にさらされる。

道端には「記憶違反通報ポスト」が設置されており、住民たちが定期的に紙切れを投函している。家族や友人を密告する投書だった。愛情や友情すら、国家への忠誠に変えられてしまっているのだ。

「あそこに食堂があるわ」

リーザが一軒の食堂を指差す。その看板には「帝国標準栄養補給所」と書かれている。

「帝国の食事を見れば、この国の実態がより分かるでしょう」

建物の外壁には巨大なポスターが貼られていた。そこには「記憶皇帝陛下に感謝を」「個人の記憶は社会の敵」「幸福は忘却から生まれる」といった標語が並んでいる。

一行は恐る恐るその食堂に入った。扉を開けた瞬間、何の香りもしない無機質な空気と共に、不自然な静寂が一同を迎えた。そこにはさらなる異常な現実が広がっていた。

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