境界線を超えて(第1部 / 険しい山脈)
朝霧が晴れ始めた頃、慶一郎たちは国境の町を後にして雪に覆われた峻険な山道へと足を踏み入れていた。標高が上がるにつれ、足元には白い雪が積もり始め、冷たい風が頬を刺すように吹きつけてくる。息を吐くたび白い吐息が立ち上り、その冷たさが肺の奥まで染み渡った。
「こんなに寒いなんて……」
サフィが震え声で呟き、マリエルが心配そうに彼女の肩を抱いた。薄手の服では山の寒さに対抗するのが難しく、全員の唇は紫色に変わっていた。
「まだ序の口よ」
リーザが厳しい表情で前方を指差す。そこには雲に隠れるほど高い雪山がそびえ立ち、その威圧的な姿が一行を見下ろしていた。
「あの山脈を越えなければ、帝国には辿り着けない」
エレオノーラが静かに天使の力を発動させた。柔らかな光が彼女の手のひらから立ち上がり、雪道を優しく照らし始める。その暖かな光に包まれ、一同は少しだけ寒さを忘れることができた。
「ありがとう、エレオノーラ」
慶一郎が感謝を込めて微笑むと、彼女も優しく頷いた。だが、その美しい顔には深い疲労の色が浮かんでいる。天使の力を使い続けることは、彼女にとって大きな負担なのだ。
「無理をするな。俺たちで何とかする」
「いえ、皆さんのためなら……」
山道は想像以上に険しく、一歩踏み外せば深い谷底へ転落してしまいそうな崖っぷちが続いていた。雪で滑りやすくなった岩場を慎重に進みながら、カレンとアベルが先頭で道を確認していく。
「気をつけて。この先はもっと危険になる」
ザイラスの警告に、一同が緊張を新たにした。彼がかつて通った道とはいえ、時間が経過して地形が変化している可能性もある。
しばらく進むと、リーザが急に立ち止まった。その顔は青ざめ、額に冷や汗が浮かんでいる。
「感じる……帝国の結界が近づいているわ」
彼女の震え声に、一同は息を呑んだ。
「結界とは?」
ナリの問いに、リーザは恐怖に満ちた目で答えた。
「帝国が国境に張り巡らせた魔法の防壁よ。記憶を持つ者を感知し、侵入者を即座に発見する。一度引っかかれば、記憶皇帝に直接位置が伝わってしまう」
リーザの顔が恐怖に歪んだ。
「一度、帝国から逃げようとした仲間が結界に触れてしまった。その瞬間、彼の目から光が消え、まるで人形のようになったの……記憶を抜き取られ、生きながらにして死んだのよ」
その説明を聞いた瞬間、慶一郎の胸元で調和の炎が激しく揺らめき始めた。まるで目に見えない脅威を感じ取り、警戒しているかのようだった。
「落ち着け……」
慶一郎が炎を抑えようとするが、その輝きはますます強くなっていく。炎の中に込められた膨大な記憶と感情が、帝国の結界に反応して暴走しそうになっていた。
「慶一郎さん!」
エレオノーラが駆け寄り、慌てて天使の力で炎を包み込んだ。だが、その瞬間彼女の体がぐらりと揺れ、膝をついてしまう。
ナリが震えながら後退した。
「調和の炎がこんなにも激しく反応するなんて……理論を超えた現象よ。もし暴走したら、私たち全員が……」
サフィもマリエルの腕を掴みながら呟いた。
「慶一郎さん、大丈夫だよね? あの炎が私たちを傷つけることなんて、ないよね?」
「エレオノーラ!」
慶一郎が彼女を支えると、彼女の顔は蒼白になっていた。調和の炎の暴走を抑えることは、想像以上に大きな負担だったのだ。
「大丈夫……少し休めば……」
しかし、彼女の震える手を見て、慶一郎は深い罪悪感に苛まれた。自分の力をコントロールできないせいで、最愛の人を苦しめてしまっている。
「俺のせいだ……」
「そんなことありません。私たちは一心同体です」
エレオノーラの優しい言葉に、慶一郎の心に深い痛みが走った。彼女はいつも自分を責め、仲間を守ろうとする。だが、その優しさが彼女自身を追い詰めているのではないか。
レネミアが王女としての冷静さで状況を分析する。
「結界が近いということは、もうすぐ国境ですね。ここから先は、より慎重に行動しなければ」
マリエルが祈りを捧げながら告げた。
「神よ、私たちをお導きください。この険しい道を安全に越えられますように……」
だが、山の向こうから響いてくる不気味な音が、彼らの不安を増大させていた。それは帝国の鐘の音だった。重く、威圧的で、まるで侵入者を威嚇するかのような響きを持っていた。
「あの音が聞こえるということは……」
リーザの顔がさらに青ざめる。
「結界まで、あと数時間よ」
慶一郎は仲間たちの疲弊した表情を見回した。全員が寒さと恐怖で震えているが、それでも歩き続けなければならない。この先に待ち受ける試練を思うと、心が重く沈んだ。
「みんな、もう少しだ。必ずこの山を越えて、帝国を変えてみせる」
慶一郎の言葉に、仲間たちが無言で頷いた。だが、その瞳に宿る不安は隠しようがなかった。
雪は次第に激しくなり、視界を遮り始めていた。エレオノーラの光だけが、彼らの希望の道標となっていた。
風が強くなり、雪が横殴りに吹きつけてくる。足跡はすぐに雪に埋もれ、まるで彼らがそこを通った痕跡を消し去ろうとするかのようだった。
「もうすぐ夜になる」
ナリが空を見上げて告げた。
「暗くなる前に、どこか休める場所を見つけなければ」
ザイラスが記憶を頼りに周囲を見回す。
「あそこに洞窟がある。今夜はそこで休もう」
歩きながら、ザイラスがリーザに静かに話しかけた。
「リーザ、覚えているか? この道を昔、俺たちは何度も通った。まさか再び、帝国に戻ることになるとはな……」
「ええ、ザイラス。あの時は帝国のために通った道が、今は帝国を倒すための道になるなんてね……」
リーザの声には複雑な感情が込められていた。
小さな洞窟を見つけた一行は、ようやく風雪から逃れることができた。洞窟の奥からは岩肌を伝う水滴の音がポタリポタリと響き、冷たい空気の流れが絶えず吹いてきて、完全に寒さから逃れることはできなかった。
カレンとアベルは冷たくなった指を温めながら、小さな食糧を分け合っていた。
「これで最後だ。次に食事が取れるのは帝国を抜けてからだろうな」
マリエルは薬草を取り出し、疲労が濃いエレオノーラの手にそっと塗りながら祈りを込めた。
「どうか少しでも回復しますように……」
「明日はいよいよ……」
慶一郎が呟くと、全員が緊張した表情で頷いた。
エレオノーラが疲れた体に鞭打って、再び天使の力を発動させた。洞窟内が温かな光に包まれ、一同は束の間の安らぎを得ることができた。
「ありがとう」
慶一郎が彼女の手を握ると、彼女は微笑んだ。だが、その笑顔の裏に隠された疲労を、慶一郎は見逃さなかった。
「明日からは、本当の戦いが始まる」
リーザの言葉に、洞窟内の空気が重くなった。
外では風が唸り声を上げ、雪が容赦なく降り続いていた。その音が、明日という日がもたらす試練を暗示しているかのようだった。




