見えざる国家(第4部 / 覚悟の確認)
深夜、隠れ家の片隅で慶一郎は一人膝を抱えて座っていた。ろうそくの炎が壁に長い影を落とし、その影が彼の心の闇を映し出しているかのようだった。冷たい石の床に座る彼の体は震え、それが寒さによるものなのか、恐怖によるものなのか、もはや区別がつかなかった。
胸元の調和の炎も普段より弱々しく揺らめいている。まるで明日への不安を感じ取り、力を失っているかのようだった。
「慶一郎さん……」
エレオノーラの優しい声が暗闇に響いた。天使の彼女でさえ、その声にはかすかな震えが混じっている。
「眠れないのか?」
慶一郎が振り返ると、エレオノーラの美しい顔に深い憂いが刻まれていた。普段の穏やかな微笑みは影を潜め、蒼白な唇が僅かに震えている。
「怖いんだ……」
慶一郎の正直な告白に、エレオノーラは静かに隣に座った。彼女の体温がかすかに伝わってくるが、それでも消えない不安が胸を締め付ける。
「もし俺が君のことを忘れたら……今までの記憶を全部奪われて、君がそこにいても分からなくなったら……」
慶一郎の声が途切れ途切れになった。想像するだけで胸が引き裂かれそうになる。
エレオノーラの瞳に涙が浮かんだ。
「私も同じです。あなたが私を見ても、何も感じなくなってしまったら……」
その時、彼女は決意を込めて慶一郎の手を握った。
「でも、私が天使である限り、あなたの記憶を必ず守ります。たとえ私の存在が消えることになっても……」
慶一郎は激しく首を振った。
「そんな犠牲は払わせない。俺たちは一緒に生きるんだ、一緒に戦うんだ」
二人の手が重なり合った瞬間、調和の炎が温かく輝き始めた。その光はエレオノーラの天使の力と共鳴し、二人の心を一つに繋げていく。
「記憶を結び合わせよう」
慶一郎が呟くと、炎の光が二人を包み込んだ。互いの記憶が交錯し、初めて料理を共に作った日の笑顔、困難を共に乗り越えた瞬間、愛し合った時間、支え合った瞬間、そして永遠に続く絆が鮮明に蘇る。
「これで……たとえ記憶を奪われそうになっても、俺たちの絆は切れない」
エレオノーラが微笑んだ。その笑顔にはもう恐怖はなく、ただ深い愛と信頼だけがあった。
だが、窓の外からは帝国の監視塔の光が不気味に点滅しており、明日という日がもたらす試練を無言で告げていた。
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夜明け前の静寂の中、一人また一人と仲間たちが起き出してきた。誰もが眠れぬ夜を過ごしていたのは明らかで、疲労と緊張で顔色は優れなかったが、その瞳には消えない決意の光が宿っていた。
レネミアが最初に口を開いた。王女として培われた強さと、それでも隠しきれない人間らしい恐怖が入り混じった表情で。
「私は王女として、民を救う使命を背負っています。たとえ記憶を失っても、この使命感だけは消えないはず……そう信じたい」
彼女の声の最後の震えに、内心の不安が滲み出ていた。強くあろうとする王女の仮面の下に、一人の女性としての恐怖が隠れている。
マリエルが胸元の十字架を握りしめながら告げた。
「神への信仰があれば、記憶を失っても道は見つけられるはず。私の祈りが皆さんを守りますように……」
しかし、その祈りの言葉の中にも、信仰さえも奪われるかもしれないという深い恐れが潜んでいた。
サフィが小さく、しかし力強く言った。
「私……みんなと一緒にいられるなら、怖くない。みんなで支え合えば、きっと記憶も戻ってくるよね?」
彼女の純粋な言葉の中に、失ってしまうかもしれない仲間との絆への切ない願いが込められていた。
ナリが分析的な口調で、しかし震え声で告げる。
「学者として記憶の謎を解明したい……でも、記憶を失えばもう何も研究できない。この矛盾が……怖いです」
知識を失う恐怖が、普段冷静な彼女を深く揺さぶっていた。
カレンとアベルが同時に立ち上がった。
「騎士として、最後まで戦います」
カレンの力強い宣言に、アベルも頷く。
「僕たちが盾になります。絶対に慶一郎さんたちを守り抜く」
二人の若い騎士の決意には、死への覚悟と、それでも生きて帰りたいという人間らしい願いが入り混じっていた。
ザイラスが最後に重々しく口を開いた。
「私は贖罪のために生きている。かつて帝国の命令で奪った無数の記憶、その消えない悲鳴が今も私の耳に響いている……たとえ記憶を失っても、この罪悪感だけは残るだろう。それが私の道標になる」
彼の言葉には深い自己嫌悪と、それでも仲間を守りたいという純粋な願いが込められていた。過去の罪を背負いながら戦う男の、複雑で痛ましい心境が痛いほど伝わってくる。
隠れ家の空気は重苦しかったが、同時に深い絆で満たされていた。
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慶一郎がリーザの元に歩み寄ると、彼女は古い写真を手に震えていた。ぼろぼろになった写真には、幸せそうな家族の姿が写っている。
「これが……私の家族」
リーザの声は涙で詰まっていた。
「夫のトーマス、娘のエリー。帝国に処刑される前の、最後の写真」
慶一郎は静かに食材を取り出した。限られた材料だったが、調和の炎の力があれば、記憶を呼び覚ます料理を作ることができる。
「君の家族の記憶を、料理に込めさせてくれ」
慶一郎の提案に、リーザはためらいを見せた。一瞬、復讐を手放す恐れが彼女の心を掠めたが、漂ってきた温かな香りがその恐れをゆっくり溶かしていった。
調理を始めると、隠れ家に懐かしい香りが漂い始めた。それはどこか家庭的で温かく、家族の愛を感じさせる香りだった。
「この香り……」
リーザの瞳に涙が溢れ出した。
「トーマスがよく作ってくれたスープの香りに似ている……」
料理が完成すると、リーザは震える手でスプーンを握り、恐る恐る口に運んだ。記憶が洪水のように押し寄せ、彼女は静かに嗚咽を漏らした。
「思い出した……エリーが初めて『お母さん』って言った日、トーマスが結婚記念日に作ってくれた特別な料理、家族三人で見た夕日……」
涙が止まらないリーザに、慶一郎は優しく告げた。
「君の戦いの理由は復讐じゃない。愛する人たちの記憶を守ることだ」
リーザは深く頷いた。
「そうですね……私はもう、同じ悲劇を誰にも繰り返させないために戦います。私の家族も、きっとそれを望んでいるはず」
その時、窓の外で鳥が鳴き始めた。夜明けが近づいている。リーザの心の中で、憎悪が希望へと変わっていくのを、慶一郎は確かに感じ取っていた。
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東の空がかすかに白み始めた頃、一同は最後の準備を整えていた。ろうそくの炎が朝の光に負けて弱々しく揺らめく中、それぞれが無言で装備を確認していた。
カレンが静かに剣を腰に差し込み、ナリが書物と地図を慎重に鞄に収める。マリエルは小瓶に詰めた薬草の調合を再確認し、アベルが短剣の切れ味を確かめていた。金属の武器が触れ合う音、革の鞄を締める音、足音――すべての音が普段より大きく響き、緊張感を高めていた。
慶一郎は調和の炎を見つめた。その炎は今、これまでにない強い光を放っている。まるで決戦への覚悟を決めたかのようだった。
「みんな、準備はいいか?」
慶一郎の問いかけに、全員が無言で頷いた。言葉はいらなかった。彼らの瞳に宿る決意が、すべてを物語っていた。
リーザが地下組織の仲間たちと最後の打ち合わせをしている。彼らの表情にも深い覚悟が刻まれていた。多くの仲間を失い、それでも戦い続ける彼らの強さが、慶一郎たちの背中を押していた。
エレオノーラが慶一郎の手を握った。
「どんなことが起きても、私たちの絆は永遠です」
サフィが明るく、しかし少し震え声で言った。
「みんな、絶対に帰ってこようね。みんなで一緒に、また美味しいご飯を食べよう」
その瞬間、遠くの帝国から重い鐘の音が響いてきた。それは彼らを迎え撃つかのような、不吉で威圧的な音だった。
慶一郎は仲間たちを見回し、最後の誓いを立てた。
「俺たちは必ず世界を変える。記憶を奪われる恐怖のない世界を作るんだ」
調和の炎が力強く輝き、朝日と共に希望の光を放った。だが同時に、帝国の黒い影が地平線に立ちはだかり、これから始まる戦いの厳しさを物語っていた。
一同は静かに隠れ家を後にした。背後には安全な世界、前方には未知の恐怖。それでも彼らの足取りは確かで、決意に満ちていた。
「行こう」
慶一郎の静かな一言と共に、運命の戦いが始まろうとしていた。
朝霧の中に消えていく彼らの後ろ姿を見送りながら、地下組織の仲間たちは祈るような気持ちで見つめていた。この戦いの結果が、世界の未来を決めることを、誰もが理解していたからだった。




