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見えざる国家(第3部 / 作戦計画立案)


地下水道から戻った一行を迎えたのは、廃墟の隠れ家に満ちる重苦しい沈黙だった。ろうそくの炎が壁に踊る影を作り出し、その不安定な明かりが全員の疲弊した表情を浮かび上がらせる。湿った石壁からは冷気が滲み出し、誰もが無意識に肩を震わせていた。


慶一郎の手は今もかすかに震えていた。地下水道で感じた絶望的な記憶の重み、骸骨の傍に刻まれた「助けて」の文字が脳裏に焼き付いて離れない。胸元の調和の炎も普段より弱々しく揺らめき、まるで先ほど目にした悲劇の記憶に打ちのめされているかのようだった。


「では、情報を整理しよう」

ナリの声が震えているのを、誰もが気づいていた。普段は冷静な彼女でさえ、帝国の恐ろしさを前に動揺を隠せずにいる。


リーザが震える手で古びた地図を広げた。紙がかすかに震え、古いインクの匂いが鼻をついて過去の記憶を呼び起こす。染みと破れ目だらけの紙に、帝国の詳細な構造が描かれている。

「記憶宮殿はここ、帝国の中央部にある。周囲を三大機関の建物が囲んでいる」


彼女の指先が地図の一点を示すたび、その手は微かに震えていた。かつてその場所で働いていた記憶が、今は悪夢となって彼女を苛んでいるのだろう。


レネミアが王女としての訓練された観察眼で地図を精査する。

「警備は時間帯によって変わります。最も薄くなるのは夜半過ぎ、交代時刻の隙を狙うしかありません」


だが、その冷静な分析の裏で、彼女の心には王女として民を救えなかった無力感が渦巻いていた。自分の王国でさえ、こうした悲劇を防げなかったのではないか――そんな自責の念が胸を締め付ける。


「問題は記憶皇帝の能力だ」

アベルの若い顔に刻まれた恐怖は隠しようがなかった。

「一瞬で記憶を奪い取られれば、俺たちは何もできずに終わる」


その言葉に、隠れ家の空気がさらに重くなった。地下組織の面々も、かつて仲間を失った記憶が蘇っているのか、誰もが下を向いていた。


慶一郎は拳を握りしめた。恐怖はある。だが、地下水道で出会った記憶を失った男性の涙が忘れられない。マリア、エミリア――家族の名前すら奪われた男性の絶望を、二度と誰にも味わわせてはならない。


---


ろうそくの炎が揺らめく中、慶一郎は仲間たちの顔を一人一人見つめた。全員の瞳に宿る恐怖と、それでも消えない決意の光を確認しながら、静かに口を開いた。


「俺たちにはそれぞれ役割がある。一人では無理でも、みんなで支え合えば必ず道は開ける」


サフィが小さく頷く。彼女の瞳には涙が浮かんでいたが、それは恐怖からではなく、仲間への信頼から生まれるものだった。

「私も頑張る。みんなで一緒なら、きっと大丈夫」


「俺は料理で記憶を取り戻す役目を担う」

慶一郎の言葉に調和の炎がかすかに反応し、希望の光を放った。


エレオノーラが優しく微笑みながら告げる。

「私は天使の力で結界を無効化します。それに……」

彼女の表情が少し曇る。

「記憶を奪われそうになった時、皆さんの記憶を守る盾にもなります」


その言葉にカレンが鋭く反応した。

「エレオノーラに危険を負わせるわけにはいかない。俺とアベルが最前線で戦う」


「いえ、これは私にしかできないことです」

エレオノーラの穏やかだが決然とした声に、一同は複雑な想いを抱いた。彼女を危険にさらしたくないという気持ちと、彼女の決意を尊重したいという気持ちが入り混じる。


レネミアが王女としての威厳で告げる。

「私は外交交渉と民衆への働きかけを担当します。帝国の民も被害者です。彼らを敵に回してはいけません」


ナリが資料を整理しながら呟く。

「全体指揮と情報分析は私が。ただし……」

彼女の声が震える。

「記憶を奪われたら、もう分析もできなくなってしまう」


その恐怖に満ちた呟きに、隠れ家の空気がさらに重くなった。


ザイラスが静かに立ち上がった。

「私は贖罪のためにここにいる。どんな危険でも引き受けよう。リーザと共に内部案内を担当する」


リーザは複雑な表情でザイラスを見つめた。かつての敵が今は最も頼りになる仲間の一人となっている。人の心の変化の不思議さと、それでも完全には消えない警戒心が入り混じっていた。


---


慶一郎は震える手で料理道具を取り出した。金属の触感が冷たく、その冷たさが現実の厳しさを改めて突きつけてくる。


「記憶回復料理を完成させなければならない」

彼の声には決意と同時に、深い不安が込められていた。果たして自分の料理に、記憶皇帝の力に対抗できるほどの力があるのだろうか。


エレオノーラが静かに隣に座った。

「慶一郎さん、一人で抱え込まないでください。私の天使の力も料理に込めましょう」


彼女の優しい声に、慶一郎の心の重荷が少しだけ軽くなった。だが同時に、彼女を危険にさらすことへの罪悪感も湧き上がる。


「天使の力を料理に込める……そんなことが可能なのか?」

マリエルの問いかけに、エレオノーラは微かに微笑んだ。

「愛と信仰があれば、奇跡は起こります。神の力も、天使の力も、そして調和の炎も、すべては同じ源から生まれているのですから」


慶一郎は古い料理書を開いた。ページは黄ばみ、文字はかすれているが、そこには「心の料理」についての古い知識が記されている。ろうそくの光で文字を追いながら、彼は先人たちの知恵を必死に理解しようとした。


「記憶に効く香辛料……」

彼が呟きながら小さな袋を取り出し、指先で香辛料に触れた瞬間、ざらりとした感触とともに懐かしい香りが立ち上った。その香りが鼻孔を刺激すると、慶一郎自身の記憶も蘇り始める――母親が作ってくれた温かな料理、家族で囲んだ食卓の笑い声。それは懐かしさと希望を同時に感じさせる、不思議な香りだった。


サフィが香りに誘われるように近づいてくる。

「この香り……なんだかお母さんを思い出す」


その瞬間、慶一郎は確信した。この香辛料には、人の心の奥底に眠る大切な記憶を呼び覚ます力がある。


調和の炎がゆっくりと立ち上がり、エレオノーラの天使の光と混じり合った。二つの力が融合する瞬間、隠れ家全体が温かな光に包まれた。その光を見て、地下組織の面々も希望の表情を浮かべる。


だが慶一郎の心には、深い不安も残っていた。この力で本当に記憶皇帝に対抗できるのだろうか。失敗すれば、全員の記憶が永遠に失われてしまう。


---


隠れ家の空気が急に重くなった。これまで希望について語ってきたが、今度は最悪の事態について話し合わなければならない。


「もし俺たちが記憶を奪われたら……」

慶一郎の言葉に、全員が息を呑んだ。誰もが想像したくない最悪のシナリオだった。


リーザが震え声で告げる。

「記憶皇帝の力は絶対的よ。一度奪われた記憶は二度と戻らない。あなたたちは『記憶奴隷』となり、ただ命令に従うだけの存在になってしまう」


その説明に、マリエルが胸元で十字を切った。

「神よ、そのような運命からお守りください……」


エレオノーラが静かに立ち上がった。

「私の天使の力で、皆さんの記憶を守る結界を張ります。ただし……」

彼女の表情が曇る。

「その結界を維持し続けることで、私自身が危険にさらされます」


慶一郎が激しく首を振った。

「そんな犠牲は払わせない!」


だがエレオノーラは穏やかに微笑んだ。

「これは犠牲ではありません。愛する人たちを守るための選択です」


ザイラスが重々しく口を開いた。

「調和の炎が暴走する可能性もある。あの力が制御を失えば、帝国どころか周辺地域まで破壊してしまうかもしれない」


その指摘に、慶一郎の血の気が引いた。自分の力が仲間を、無実の人々を傷つける可能性があるなど、考えただけで胸が締め付けられる。


「もし失敗したら……」

カレンが騎士としての現実的な判断で告げる。その時、窓の外の暗闇から微かな監視の気配が感じられ、一同の背筋がぞっとした。

「地下組織のルートで脱出するしかない。全員で死ぬわけにはいかない」


地下組織の面々が頷く。彼らも多くの仲間を失い、撤退の重要性を身をもって知っていた。


慶一郎は仲間たちの顔を見回した。全員の瞳に宿る恐怖、不安、それでも消えない希望と決意。この仲間たちと共になら、どんな困難も乗り越えられる気がした。


「みんな、ありがとう。俺たちは必ず成功させる。そして、この世界から記憶の恐怖を取り除こう」


調和の炎が力強く輝き、隠れ家全体を希望の光で満たした。長い夜が始まろうとしていたが、彼らの心には消えない決意の炎が燃えていた。


外では帝国の鐘が不気味に響き渡り、明日という日がもたらす試練を予感させていた。

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