見えざる国家(第1部 / 亡命者との出会い)
指先も霞むほどの灰色の濃霧が垂れ込め、町全体を虚ろな影に沈めていた。古ぼけたレンガ造りの家屋は長い間手入れされず朽ち果て、崩れかけた壁や割れた窓がかつての繁栄を物悲しく語っている。冷たい風が細い路地を吹き抜けるたび、どこか遠くからか弱い子供の泣き声が聞こえた。住民たちは道行く慶一郎たちを見ると怯えたように足を止め、そのままじっと物陰に隠れてしまう。
「ひどい有様だな……」
カレンが鋭い目つきで周囲を見渡した。騎士として無力な民を守れなかった無念が、彼女の表情に苦渋となって浮かぶ。
「こんな恐怖を人々に与えるとは、帝国は許せません……」
レネミアの静かな怒りに満ちた言葉に、マリエルも胸元で祈りを捧げながら小さく頷く。
「記憶を奪われるなんて、これ以上ない残酷さです。神よ、彼らに救いを……」
慶一郎は胸元の調和の炎がかすかに揺らぎ、悲しみに共鳴するのを感じた。その反応に、エレオノーラも優しく胸元に手を添えた。
彼らは静かに息を吐き、互いを確認し合うように頷きながら、町の奥へと足を進めた。
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町の奥、荒れ果てた酒場に足を踏み入れると、カビ臭さと安酒の混じった空気が鼻をついた。薄暗い照明の下、数名の客が不信感に満ちた目でこちらを盗み見るように眺めている。その静けさは異様な緊張感に満ち、どこからか聞き耳を立てているような息遣いさえ聞こえた。
店主は慶一郎たちを見ると、鋭い目つきで一瞥し、警戒するように告げた。
「奥にいる女に聞くがいい。だが気をつけろ、誰が帝国のスパイか分かったものじゃない」
店主の言葉に従い、奥の席に座るフード姿の女性に近づく。女性は気配を感じ取ると鋭く顔を上げ、身を引くように警戒の色を浮かべた。
「あなたがリーザ……?」
慶一郎が低く尋ねると、リーザは目を細め、まるで相手を品定めするようにじっと睨みつけた。
「そうよ。あなたたちは何者? 帝国の犬じゃないとどう証明するの?」
彼女の声には緊張が満ちている。周囲の客もその声を聞いて、息を潜めているようだった。
慶一郎は静かに胸元の調和の炎を見せた。その神秘的な輝きを目にしたリーザは一瞬目を見開き、慎重に息を吐いた。
「なるほど……あなたたちは違うのね」
リーザはようやくフードを外し、その疲弊した素顔を露わにした。
「私は元料理検閲官だった。記憶を料理に込めた罪をでっち上げられ、家族は処刑された……」
彼女の瞳には抑えきれない憎悪と後悔が渦巻いている。
「帝国を許せない……絶対に許せない……。どうか私を使ってほしい」
リーザの震える拳とその言葉を聞き、サフィは小さく嗚咽を漏らした。
「ひどい……こんな世界、間違ってるよ……」
慶一郎たちは固い決意を胸に刻み込んだ。
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リーザは酒場の奥の薄暗い部屋で、小さな声で静かに語り始めた。
「セメイオン帝国は記憶皇帝が統治している。皇帝は人の記憶を奪い取る能力を持ち、抵抗する者を『記憶奴隷』にするの」
その言葉を聞くにつれ、調和の炎が悲しげに揺れた。その揺らぎを感じるたび、慶一郎の胸には怒りと悲しみが広がっていった。
「帝国の統治を支えるのが、記憶監視庁、料理検閲局、思想統制省。私は料理検閲局にいたわ。あの仕事でどれだけ多くの人を破滅させたか……」
リーザの苦悩する表情に、レネミアが王女らしい威厳で静かに告げる。
「許されるべきことではありません。私たちが必ず正します」
リーザは重々しく頷き、声を低めた。
「帝国への唯一の侵入路は古い地下水道。ただそこも罠と監視で溢れている。並大抵の覚悟では生きて帰れない」
沈黙の中、慶一郎たちは自らが向かう先に待ち受ける恐怖をリアルに感じ取っていた。
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リーザは静かに立ち上がり、酒場の裏手にある廃墟へと彼らを導いた。薄暗い建物の中には、帝国から逃れた者たちが息を潜めて身を寄せ合っていた。その中の一人、元帝国軍の男が低い声で告げた。
「俺たちは地下組織だ。帝国に抵抗する最後の力をここに集めている」
傍らに立っていた初老の男が、擦れた声で付け加えた。
「俺はかつて学者だった。帝国の思想統制省に研究を奪われた。今は知識を武器に戦っている」
リーザは彼らを見渡し、改めて慶一郎に向き直った。
「私たちと同盟を組みましょう。あなたたちの力が必要なの」
慶一郎は頷き、しっかりと手を握り締めた。
「共に戦おう。必ずこの歪んだ世界を変えてみせる」
その瞬間、調和の炎が温かく輝きを増した。エレオノーラが静かにリーザの前に歩み出ると、優しくその手を取った。
「リーザさん。あなたの悲しみと苦しみは理解できます。もう一人で抱え込まないで……」
エレオノーラの天使のような微笑みに、リーザは長い間こらえていた涙をようやく零した。
部屋の空気が希望に包まれていく中、静かに離れた場所でそれを見ていたザイラスが呟いた。
「私は贖罪のためにここにいる。最後まで共に戦わせてくれ」
その瞳には、深い後悔と強い決意が宿っていた。
新たな同盟の絆と重い決意を胸に、彼らは深い闇へと再び一歩を踏み出すのだった。




