空腹なるものの目覚め
夜が明けきるよりも先に、森の奥底で“何か”が目を覚ました。
それは生き物というには曖昧で、意思というにはあまりに深すぎる、名前を持たぬ“空腹”。
神の目さえ観測を拒んだその存在は、言葉も、炎も、意味すら拒絶する。
だが、その嗅覚は——確かに反応した。
微かに残った焚き火の香り。肉の焦げた匂い。塩の粒が弾けた音の記憶。
瞬間、全身の神経が逆撫でされるような感覚が“それ”を走った。
それは怒りでも憎しみでもない。
もっと根源的な、「裏切られた記憶」だった。
──それは、“火を知ってしまった”記憶。
火に焼かれた過去。
塩に救われかけた歴史。
味に“満たされた”日々。
だが、その果てに何が起きたか——彼らは、忘れていない。
彼らは、飢神種《ヴォル=カロ》。
火を捨て、味を封じ、記憶ごと“食卓”を埋葬した民族。
文明の炎に憧れた末に堕ちた彼らは、火を「知識」ではなく「禁忌」として伝えた。
調理とは、文明を蝕む毒。
味とは、かつて自らを滅ぼしかけた“呪詛”の残響。
それでも。
人は火でしか生きられない。
その矛盾が、いま森の奥からゆっくりと迫ってくる。
“渇き”と“満たされることの恐怖”が、塊になって這い寄ってきている。
──数日後、届いたのは、一枚の地図だった。
村の名前は焼き消され、黒いインクで「焚火厳禁」と書かれていた。
「また、“火を知らない場所”か」
銀髪の監察官が低く呟く。彼女の声にも、わずかな震えがあった。
「けど……今回の焦げ跡は、ただの焼き討ちじゃない。火を“拒絶”した痕だわ」
地図に記された村は、地形的に包囲されている。
出入り口は一つ。火が届かない。
つまり“焼けない村”だ。
焼くことを否定される土地。
火で命を救えない戦場。
だが俺は——
火を捨てられない。
塩を捨てられない。
なぜなら、それは俺にとって“魂の味”だからだ。
「行くぞ」
声にした瞬間、胸の奥に熱が灯る。
それは義務でも使命でもない。ただ一つ、料理人としての**渇き**だった。
皿を一枚だけ、革の包みに仕舞い込む。
傍らの銀髪の彼女は、何も言わずにそれを見ていた。
彼女の手には、かつて俺が焼いた肉の骨が握られていた。
“もう一度食べたい”という願いは、言葉にならずとも、火の温度で伝わってくる。
この世界に、“火を知らない空腹”があるなら。
ならば——俺の料理が、その空腹に“名を与える”。
塩で刻み、火で焼き、皿で示す。
“味わう”ことが許されない文化に、
“温もり”の意味を叩きつける。
──もし、君が“料理の通じない誰か”に出会ったなら。
君は、火を起こすか?
焼くという行為が、誰かの過去を踏みにじることになると知っていても——
それとも、塩を捨てるか?
どちらが正しいかは、まだわからない。
だが俺は……俺だけは、この皿で答える。
こんな駄文を見つけてご拝読いただけることに、ただただ感謝を申し上げるほかございません。