和解と裏切り(第1部 / 再会の朝焼け)
薄闇の中、黄金龍都は未明の静けさに包まれていた。夜がまだ退き切らず、青く沈んだ朝霧が街路を静かに覆っている。石畳は湿気を帯び、足音すら飲み込んでしまいそうな深い静寂が支配していた。
そんな静謐を突き破るように、城門のそばから焦った足音が響いた。灰色のフードを深くかぶった女性――エレオノーラが息を荒げ、懸命に駆け込んでくる。追われるように、何度も背後を振り返りながら。
「まだ追っては来ていない……」
彼女は胸を押さえ、冷たく震える手で街路の壁に寄り掛かった。薄い吐息が白く凍える空気の中に消え、苦しげな瞳が揺れている。
(私はもう、後戻りできない……)
先日、慶一郎へ救援の手紙を送りつけ、彼女は全てを捨てた。自らが属した秩序の側から逃れ、追われる身となったことは覚悟していた。しかし、実際に孤独と恐怖に包まれた逃避行を続けていると、自分の選択が本当に正しかったのか、不安で胸が押し潰されそうになる。
ふと彼女の鼻先を柔らかくくすぐる香りが届いた。優しく懐かしい、それでいて心を強く惹きつける香りだ。無意識のうちにその匂いに導かれ、足を動かしていた。
街角を曲がった先、淡いランタンの光に照らされた小さな屋台が見えた。早朝にも関わらず、そこには一人の青年が静かに料理をしている姿があった。鍋の湯気がゆらりと立ち昇り、その奥に穏やかで真剣な表情の青年――慶一郎の姿があった。
胸の奥で小さな鼓動が早鐘を打つ。彼の温かな横顔を目にした途端、今まで抱えていた不安や迷いが嘘のように消え去っていくような気がした。
「慶一郎……」
震える唇で呟き、エレオノーラは静かに歩み寄った。その気配に気付いた慶一郎がゆっくり振り返り、一瞬驚いたような表情を見せるが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。
「エレオノーラ、よかった。無事だったんだね」
その瞬間、彼女の瞳から涙があふれ出た。それは安堵と罪悪感、そして何よりも純粋な喜びが交じり合った涙だった。
「ごめんなさい、急にこんな形であなたを巻き込んで……でも、私にはもう他に頼れる人がいないの」
声を震わせて訴える彼女に、慶一郎はそっと頷いて微笑んだ。
「君が助けを求めてくれたのが嬉しい。まずは落ち着いて、これを食べて」
慶一郎が差し出したのは、熱く湯気を立ち昇らせる『真なる調和のシチュー』だった。陶器の器は彼女の冷え切った手を優しく包み込み、心まで温めるようにじんわりと熱を伝えてくる。
一口スープを含むと、口の中で暖かな旨味が幾重にも広がった。柔らかな塩気、肉や野菜の深い滋味、そしてその全てをまとめ上げる見えない調和の力――まるで自身の乱れ切った心が整えられていくような感覚に、エレオノーラは涙を止めることができなかった。
「私がずっと守りたかったのは、秩序ではなく、人々のこんな笑顔だったのね……」
彼女は胸にこみ上げる想いを押さえきれず、言葉を続けた。
「私はもう、秩序陣営には戻れない。だけど、あなたと共に歩みたい。あなたと一緒なら、きっとこの世界を変えられる――いいえ、変えなければいけないの」
その真摯な瞳を慶一郎がじっと見つめ返し、力強く頷く。
「君となら、きっと世界はもっと良くなる。一緒に行こう、エレオノーラ」
二人の間を流れる沈黙は、やがて確かな絆へと変わった。
その頃、朝の光が徐々に街路を照らし始め、街の息遣いが少しずつ戻ってくる。そんな光景を遠巻きに、影に隠れて見守っていた人物がいた。レネミア王女だった。彼女は切ない表情で胸元を押さえ、深いため息を漏らした。
「エレオノーラ、あなたも彼を……でも、私も負けないわ……」
その呟きは微かな風に乗り、薄明の街に消えた。
一方、遠方ではアベルが苦悩を抱えていた。秩序陣営からの離脱を決めた師エレオノーラに従うべきか、連盟に忠実であるべきか。彼の心の中では忠誠と良心が激しく葛藤していた。
そして――秩序陣営の最奥、冷たく鋭い眼差しでザイラスが命じていた。
「エレオノーラを追え。裏切り者に慈悲は不要だ……」
その声には憎悪と冷徹な意志が込められていた。
黄金龍都の朝は、美しくも不穏な色を帯びて明けていく――。




