食卓の誤解と誓いの塩
遠くから馬の蹄が地を打つ音がした。風がざわつき、枝葉の揺れる音のなかに混じって、重厚な甲冑が擦れる金属音が近づいてくる。
その数は十や二十ではなかった。百を超える兵の気配。王国騎士団——ここから数十キロ離れた都市部に常駐する、対魔種用の戦闘精鋭部隊が、警告もなく森の斜面を駆け降りてきたのだ。
彼らが見たのは、焚き火を囲む俺と子ども、そしてその横に座す巨大な魔獣。
その図だけを見て、彼らが導き出す答えはただ一つだった。
「魔獣に捕らわれた子ども、ならびに支援者! 殲滅許可、降下用意!」
空気が緊張で張り詰めた。
彼らにとって、あまりにも典型的な敵構図。
魔獣=脅威。
焚き火=供物。
そして、俺=“裏切り者”あるいは“操られた者”。
誤解だった。
だが、俺の言葉が届く前に、矢が放たれた。
一矢。
二矢。
魔獣が咆哮を上げ、子どもが悲鳴を上げ、俺は咄嗟にその子を庇うように伏せた。
その直後、駆け込んできた銀髪の監察官が、剣を抜いて俺たちの前に立った。
「待て! 命令を一時中止! 状況、解析の必要あり!」
だが、彼女の声も、兵たちの勢いを止められない。
誤解が、火より速く広がっていく。
このままでは、“食卓”が——命を繋ぐこの火が、蹂躙される。
そして俺は立ち上がった。
「おい、焼けるぞ」
鉄板の上で、脂が軽くはじけた。
焦げる寸前の肉。
最高の火加減。
こんな状況でも、いや、こんなときだからこそ、料理は完成しなければならない。
塩を振る。
火加減を見極める。
誰かを喰らうためじゃない。
誰かを“生かす”ために——俺は、料理をしている。
香りが立つ。
それは、騎士たちの視線を、微かに止めるには十分だった。
戦端は、誤解から唐突に開かれた。
王国騎士団が焚き火に迫り、魔獣を敵と断定し、子どもを巻き添えにして討伐に動く——まさに、対話の余地もなく“食卓”が蹂躙されかけた瞬間だった。
そのなかで、俺は肉を焼いていた。誰かを喰らうためじゃない。誰かを“生かす”ために。
焼き上がる肉の香りに、銀髪の監察官が剣を抜き、魔獣が咆哮を止めた。
騎士たちの誤解と怒号の中で、それでも料理の火だけは消させなかった。
銀髪の女は、じっと俺の手元を見つめていた。肉の焼き色、塩の打ち方、火の高さ、脂の弾ける音。そのすべてを、まるで魔法を見るかのような静けさで見つめていた。
魔獣は鼻をひくつかせていた。その嗅覚が、俺の焼く肉に宿る“生の香り”を確かに感じ取っていた。
そして、風向きが変わった。焼き上がる肉の香りが、包囲していた騎士たちの列にも届いたのだ。
最初に反応したのは、若い騎士のひとりだった。
「……う、腹が……ぐ……」
無意識に腹を押さえてうずくまる彼の横で、別の騎士も息を飲んだ。「こんなときに、なんだこの匂いは……」と。
戦場で、火の香りが、鋼よりも強い力を持った。
——その直後——
次に、銀髪の女が、剣を下ろした。
その目には、涙ともつかぬ光が揺れていた。
……そして、俺を見つめるそのまなざしには、明確な熱があった。
信頼でも尊敬でもない。もっと、感覚に近い何か。温かい皿の向こうに生まれた“感情の始まり”だった。
「ねえ、あんた」
女は一歩、近づいた。
「この料理……本当に、あんたが作ったの?」
「ああ。俺が焼いた」
「だったら、あたし……もう少しだけ、一緒にいてもいい?」
その問いは、刃ではなかった。誓いだった。
塩の風が、再び吹いた。
「……好きにしろ」
短く返し、俺は火に向き直った。けれどその瞬間、背中で感じる気配があった。
彼女はまだ剣を収めていない。
でも、たぶん、もう誰にも向けていない。
この場に残った者のなかで、一番先に“皿に惚れた”のは、彼女だったのかもしれない。
そして最後に、騎士たちが、槍を伏せた。
食卓が、戦場を塗り替えた。
——その瞬間、空の奥底に、金属のような意志が響いた。
『記録完了——「火で戦を止めた皿」、分類:共感介入型因子』
神の目が、再びこちらを見ていた。
だがその裏で——森の奥に潜んでいた“別の影”が、ゆっくりと目を覚ました。
それは、異界の気配。
神の目とは異なる“もうひとつの渇き”だった。
その存在は、食を知らない。火を知らない。
そして、塩に呪いを抱いていた。
戦いは終わっていない。これはただの“火入れ前”にすぎない。




