混沌の果て(後編)
黄金龍都の大地は、怒り狂う神話の獣たちの激突で引き裂かれていた。
フェンリルの鋭い咆哮は空気を震わせ、衝撃波となって兵士や瓦礫を吹き飛ばした。その爪は城壁を容易く削り取り、大地に深い裂け目を生んだ。一方ベヒモスは巨大な体躯を誇示し、踏み出すたびに大地を揺るがし、大聖堂の尖塔を粉砕した。
対峙するドラゴン軍団もまた圧巻だった。セリュナを先頭に、幾十もの龍たちが旋回し、強力な炎や氷の息吹を浴びせかける。青白い炎はフェンリルの毛並みを焦がし、氷のブレスはベヒモスの動きを一瞬止めるが、それすら一時的な足止めにすぎなかった。
地獄と見紛うばかりの光景に、兵士も市民も絶望的な恐怖に取りつかれ、悲鳴が響き渡っていた。
---
そんな混乱の中心で、慶一郎は必死に鍋を見つめていた。
「頼む……母さん!」
セリュナが放つ龍の炎は鍋を美しく輝かせ、調和のポトフの香りは戦場を包むほどに強まっていた。隣でサフィが黙々と野菜を切り、マリエルは祈りを捧げる。
「神よ、どうかこの料理に力を――」
彼女の祈りに応えるように、鍋の中のスープが突然鮮やかな金色に輝き、まるで命を持ったかのように沸き立った。
「これだ……!」
---
一方、最前線ではカレンが深手を負いながらも剣を振るっていた。その横ではナリが必死で地図を広げ、叫んでいる。
「西門が突破される! 敵が広場まで侵入するわ!」
レネミアが歯を食いしばり叫んだ。
「絶対に広場を死守! 慶一郎が到着するまで持ちこたえなさい!」
だがその時、城壁を突き破ってフェンリルが躍り込んできた。巨大な狼の眼がレネミアを捕らえ、その口が開かれた瞬間――。
「間に合え!」
広場の入口に慶一郎が姿を現した。両手には『調和のポトフ』が湯気を立てている。
---
「これを食え! これが俺たちの武器だ!」
兵士たちは半信半疑だったが、追い詰められた絶望の中でスープを口に運ぶ。その瞬間、全員の瞳が大きく見開かれた。
「これは……」
傷ついた体が急速に癒され、恐怖が消え去り、温かな記憶が呼び覚まされる。兵士たちは武器を下ろし、涙を流しながら歓喜した。
だがその時、咆哮をあげるフェンリルが突撃を開始した。慶一郎は一瞬躊躇したが、勇気を振り絞ってポトフを掲げて前に立った。
「お前も食え! お前もきっと、この味を求めている!」
フェンリルは衝突寸前で足を止め、巨大な鼻を震わせ、香りを深く嗅いだ。次の瞬間、その獣の瞳に人間的な涙が宿った。
ザイラスが遠くから叫ぶ。
「馬鹿な……! 神話の獣が料理などに惑わされるはずがない!」
しかし、フェンリルは静かに横たわり、慶一郎の差し出した器から静かにスープを啜った。その身体を包む荒々しい闘気が消え去り、穏やかな風が戦場に吹き始める。
ドラゴンたちも戦いを止め、空中で静止した。セリュナが微笑んだ。
「これが、調和の力……」
---
その時、崩れた城壁の陰からエレオノーラが静かに姿を現した。白い聖衣は汚れ、傷だらけだったが、彼女の瞳には明確な意志が宿っていた。
「遅くなってごめんなさい、慶一郎。私は今ようやく自分の過ちに気づいた……」
ザイラスが歯ぎしりしながら叫んだ。
「貴様、裏切るのかエレオノーラ!」
彼女は冷静に首を振り、毅然と答えた。
「いいえ、ザイラス。私は自分の心に正直になっただけよ。私たちの本当の敵は、料理でも自由でもない――それを否定する私たち自身だったの」
ザイラスは狂ったように叫び、剣を抜いてエレオノーラに襲い掛かろうとしたが、セリュナが翼を広げ、その巨大な身体で彼を遮った。
「もう終わりだ、ザイラス」
---
戦場は静寂に包まれ、人間もドラゴンも、フェンリルもベヒモスも、皆が静かに調和のポトフを囲んだ。慶一郎の周りにはすべての仲間たちが集まり、互いの存在を確認しあって微笑んだ。
レネミアが穏やかな表情で慶一郎に囁いた。
「あなたは本当に世界を救ったのね」
慶一郎は微笑み返した。
「まだ始まったばかりだよ。でも、一歩は踏み出せた」
エレオノーラは彼の手を取り、深く頭を下げた。
「許してくれてありがとう。これからは共に調和を作りましょう」
---
その夜、戦火が収まった広場では、調和の宴が華やかに催された。ドラゴンたちは空を舞い、神話の獣たちも穏やかに横たわり、その中央で人々が笑いあい、慶一郎の料理を味わった。
星空の下で、世界中から届いた和平交渉や賛同の使者が祝杯をあげる。リュウゲンは満足げに慶一郎に声をかけた。
「あなたは料理で世界を変えましたね」
慶一郎は満天の星空を見上げ、静かに微笑んだ。
「まだ世界は混沌の中だ。でも、料理が持つ調和の力を信じるよ」
その言葉は静かに世界に広がり、新たな秩序と調和の兆しとなって響いた。




