迷える聖女(前編)
夜明けを迎えた黄金龍都はやわらかな朝日に包まれていた。霧が晴れゆく中で、夜の間に起きた『奇跡』は確かな温もりとなって街全体を包み込んでいた。だが、この希望の輝きから遠く離れた西方神教連盟の本拠地『秩序の塔』には、依然として鋭く凍えた風が吹きつけている。
塔の一室。冬の始まりを告げる北風が灰色の石壁を震わせ、細く開いた窓の隙間から入り込んだ冷気が蝋燭の火を弱々しく揺らす。
エレオノーラの瞳はその淡い光を見つめていたが、その心は遥か過去の深い記憶を辿っていた。
「なぜ……なぜ、こんなにも私の心は乱れるの……」
数日前、黄金龍都で口にしたスープの温かさが蘇り、胸の奥で閉ざしていた古傷を疼かせた。温かな食卓、母の笑顔、兄妹たちの笑い声。彼女がそれらを失ったのは、自由な料理を巡る紛争の結果だった。
——あの夜、争いの火が街を包み込み、家族は炎に飲まれた。
彼女は胸元をぎゅっと握りしめる。だが今、その温かさは鋭い痛みよりも優しく、彼女の胸を揺さぶっていた。
その時、扉が静かに叩かれ、若い見習い聖職者が不安げな顔を覗かせた。
「エレオノーラ様……秩序の騎士団の隊長、ザイラス様がお呼びです」
エレオノーラは無言で頷き、重い足取りで塔の最上階へと続く回廊を歩いた。冷えた空気が肌に刺さり、過去と現在の狭間で揺れる彼女の心を容赦なく冷たく切り裂いていく。
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「エレオノーラ殿、貴女の様子がおかしいと報告を受けています」
秩序の騎士団隊長ザイラスは窓辺に立ち、振り返った。その瞳は氷のように冷たく、鋼のように硬い。彼の声は重く、冷徹に彼女を貫いた。
「黄金龍都で慶一郎なる料理人に惑わされたのでは?」
エレオノーラは一瞬息を詰まらせ、強がるように答えた。
「私はただ視察しただけです。あの料理に惑わされるようなことはありません」
しかしザイラスの眼差しは一層鋭くなり、冷ややかな圧迫感が部屋を満たした。
「その割には、貴女の迷いが隠せていない。あの料理がもたらすのは甘い幻想です。その幻想は人々を一時的に癒すでしょうが、やがて争いを生みます。それは貴女が誰よりも知っていることではありませんか?」
エレオノーラの心臓が鋭く締め付けられる。その言葉は彼女が長年抱えてきた恐れそのものだった。
「秩序を守らねばなりません……それは揺らぎません」
彼女の声は細く震え、揺れていた。ザイラスは静かに一歩近づき、低い声で告げる。
「迷いを捨てねば、次の策を講じざるを得ません。エレオノーラ殿……」
その冷たく静かな脅迫にエレオノーラは背筋を凍らせたが、言葉を返すことはできなかった。
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ザイラスとの対話を終え、塔を降りる回廊を歩く彼女の胸には、もはや痛みだけではなく迷いが深く絡みついていた。胸元を握りしめていた指先が震える。
「本当に間違っているのは……私たちなのか……?」
ふと視線を落とした中庭では、若い聖職者たちが小さく囁いている。その中に、穏健派のフィオナ聖女の姿があった。
「エレオノーラ様の心は今、揺れているのかもしれません」
「だが、あの料理人の料理は本当に幻想なのだろうか……?」
「私はわからない。でも……確かにあれは、人の心を癒していた」
フィオナの優しい声音が、エレオノーラの胸に深く響いた。フィオナは視線を上げ、回廊に佇むエレオノーラと目を合わせる。優しく微笑みながら軽く頭を下げたその表情は、静かな励ましと共感に満ちていた。
それはエレオノーラの中で渦巻いていた孤独をほんの僅かに癒したが、同時に彼女の迷いを深くする。
「フィオナ、あなたも感じているのね。この揺れを……」
彼女は自分に囁きながら足早に自室へと戻る。回廊の端で、一瞬だけ黄金龍都の方角を見やる。遠く曇った空には静かな雨が降り始め、冷たい滴がエレオノーラの頬を濡らしていった。
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一方、その頃黄金龍都では、慶一郎がセリュナやマリエル、そしてレネミアらと共に難民たちへの料理の支援を続けていた。サフィも完全に回復し、その喜びが周囲を明るく照らしている。
だが慶一郎の表情には、心の隅にある不安が影を落としていた。
「エレオノーラ……彼女の迷いはどちらに傾くんだろうな……」
つぶやく慶一郎に、レネミアがそっと寄り添い微笑む。
「大丈夫よ。あなたの料理があれば、きっと彼女の心も動かせるわ」
その言葉に慶一郎は静かに頷き、遠く西方を見つめた。
雨が強まり、世界は灰色に染まっていく。だがその中にあっても、彼らの胸に宿る希望の炎は決して揺らぐことがなかった。




