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分裂する神々(前編)


黄金龍都の夜は静寂に包まれ、庭園を渡る風が花の香りを優しく運んでいた。


その静かな闇の中、マリエルは月明かりに照らされながら、震える胸に手を当てて祈りを捧げていた。


「神よ、私はあなたを裏切ることになります……。私は、慶一郎様を深く愛してしまいました。この想いをもう隠せません……」


彼女の頬を透明な涙が滑り落ち、か細い声が夜の静寂を切り裂いた。


その瞬間、柔らかな光が天空から降り注ぎ、マリエルの手に鮮やかな胡椒の実が詰まった精巧なペッパーミルが現れた。


『愛は罪ではない。我が娘よ、その料理人と共に歩みなさい』


神の声は穏やかで温かく、マリエルはその神器を胸に抱きしめて安堵の涙を流した。


---


同じ夜、宮殿の一室では、慶一郎が静かに目を見開いていた。


彼の前に突然現れた古びたレシピ帳。それは間違いなく、母が愛用していたものだった。手触り、紙の香り、表紙の擦り切れた部分にまで懐かしさが溢れている。


その時、背後に静かな足音が響いた。振り向くと、そこには月光を浴びたマリエルが静かに立っていた。彼女の瞳は赤く潤み、その表情には真摯な決意が満ちていた。


「慶一郎様……神が私の想いを許してくださいました。私はあなたを心から愛しています。私と共に歩んでくださいませんか?」


その切実な言葉に、慶一郎の心が大きく揺れ動いた。

だが同時に、彼の胸には複雑な葛藤が渦巻いていた。


(マリエルの想いを受け止めたい……でも、レネミア、カレン、サフィ……皆を思う気持ちも嘘じゃない……)


彼の迷いを感じ取ったかのように、マリエルがそっと近づき、静かな声で告げた。


「急がなくても構いません。あなたの心が整理できるまで、私は待ちますから……」


その優しい気遣いに、慶一郎は胸が締め付けられるような感動を覚え、穏やかな笑みを浮かべた。


「ありがとう、マリエル。君の想いは、俺にとって何よりも大切な宝物だよ」


---


翌朝、黄金龍都の市場は穏やかな陽光の中、いつもの活気に満ちていた。慶一郎とリュウゲンは屋台を構え、料理の仕込みを進めている。香ばしい匂いが立ち込め、市民たちはその味を待ちわびるように笑顔で集まってきた。


そんな平和な空気を、一陣の強い風とともに影がよぎった。


「見て、あれはもしかして……あの時のドラゴンじゃないか?」


市場の人々がざわめき出す。しかし、それは怯えた声ではなく、どこか好奇心を伴った親しみあるものだった。


「本当だ。前に来たあのドラゴンだよ」

「料理人さんが助けてくれたあの日の!」


黄金色の鱗が陽の光にきらめき、美しいドラゴンはゆっくりと市場の中央に降り立った。衛兵やギルドの冒険者も、一瞬だけ構えかけた武器をゆるめ、どこか安心したように息を吐いた。


「またお腹を空かせてしまいました……」


人の姿をとったドラゴン――セリュナが申し訳なさそうに小さく頭を下げると、市場には穏やかな笑いがこぼれた。


「いいさ、ドラゴンさん。また食べに来てくれたんだろう?」

「あんたが来るなら、市場がまた賑わうからね!」


市民の暖かな歓迎に、セリュナは戸惑いつつも嬉しそうに頬を染めた。そんな中、慶一郎が笑顔で歩み寄る。


「おかえり、セリュナ。腹が減ったら、いつでも来てくれ。俺は料理人だからな。お腹を空かせた客を拒んだことはない」


彼の温かく力強い言葉に、市民たちは感嘆の声をあげて拍手を送った。慶一郎が手際よく鍋を取り出し、再び市場に美味しい香りが広がり始める。


料理を口に運んだセリュナの瞳に、静かな涙が浮かぶ。その涙は悲しみではなく、どこか懐かしく幸せな記憶がよみがえった証だった。


「また……この温かな味を食べられるとは思いませんでした……」


セリュナが感動の涙を拭う姿に、市民たちはさらに親近感を覚え、優しく微笑んだ。


「ドラゴンも泣くんだな」

「彼女はもう、俺たちの大切な客だよ」


市場は、再び訪れたドラゴンと料理人を歓迎する温かな笑い声と拍手で満たされた。その光景は、この黄金龍都の人々の心をさらに一つに結びつける、穏やかで忘れられないものとなった。




---


一方、宮殿ではレネミアがテラスから街を見下ろし、遠くの市場の騒ぎを心配そうに眺めていた。


「また一つ、慶一郎は人の心を変えていくのね……」


彼女は静かに溜息を吐き、胸に疼く切なさと自分が王女であることの葛藤を噛み締めた。


そして宮殿の一室では、カレンがベッドのそばに座り、まだ目覚めぬサフィの手を優しく握っていた。


「サフィ、あなたは必ず目を覚ますわ。慶一郎の料理が奇跡を起こしてくれるはずよ……」


ナリが静かに頷き、そっと呟いた。


「慶一郎がいる限り、私たちはきっと救われる……」


---


だがその頃、西方神教連盟の大聖堂ではエレオノーラが祭壇の前で深く跪き、必死に祈りを捧げていた。


「神よ、私に何を望まれているのですか?私は世界に秩序をもたらすと誓いました。なのに、慶一郎がもたらす自由な料理の魅力に抗えません……」


彼女の頬を熱い涙が伝った。

胸を満たすのは、神への忠誠心と、慶一郎の料理への抗えない憧れとの激しい葛藤だった。


「どうかお導きください……私は、これから何を信じて生きればよいのか……」


---


世界は確かに分裂を深めていた。

神々は混乱し、人々は揺れ動き、その狭間で慶一郎は静かに決意を新たにした。


「俺の料理で、世界を一つにしてみせる……必ず」


彼の胸には、温かな希望の炎が燃えていた。


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