傷を負った逃避行(前編)
世界が混沌に包まれ、炎が大地を焼いたあの日――慶一郎たちは、苦悩の道を歩み始めた。
メイラ近郊を覆う戦乱から逃れるように撤退する中、燃え盛る都市の赤黒い煙が地平線に溶け込み、心を締め付けるような夕日が空を血のように染めていた。
辺りには、焼け焦げた木々や瓦礫が散乱し、かつて人々の笑い声が響いた街道には今やすすり泣くような風が通り過ぎるだけだった。足元の土は灰と化し、一歩踏み出すごとに、乾いた悲鳴を上げるかのように埃が舞い上がる。
慶一郎の横で、レネミア王女の足がもつれ、小さく呻いた。
「……申し訳ない、少し休ませて」
彼女の額からは滲んだ汗が頬を伝い、蒼白な顔色はその疲労を鮮明に物語っていた。彼女の細い肩が小刻みに震えるのを見て、慶一郎はそっとその手を取った。
「無理をするな、レネミア。少しでも休もう」
マリエルもまた、唇を噛み締め、祈るように胸元を握りしめていた。彼女の清らかな祈りは、今や哀切な悲痛を帯びていた。
「神よ……どうかこの惨劇を止める力を、私にお授けください……」
カレンは無言で周囲を警戒し続けているが、その鎧にも血が滲み、ところどころ砕けている。彼女の目には、見えない敵と戦うかのような激しい光が宿っていた。
仲間たちは誰もが傷つき、焦土を踏みしめるたびに心まで削られていた。
ふと慶一郎が視線を向けると、背後に控える荷車の上でサフィが静かに横たわっていた。薄い毛布に包まれたその小さな身体は呼吸こそ安定しているものの、まだ意識は戻らず、その儚さが胸を痛ませる。
「サフィ……」
慶一郎は静かに拳を握りしめた。彼女を救うことができるのだろうか。料理がもたらす奇跡は、果たしてまだ残されているのか――。
その時、彼の肩にリュウゲンの力強い手が置かれた。
「慶一郎殿、希望を捨ててはなりません。まだ、道はあります」
リュウゲンの瞳は深く穏やかで、その声には確かな勇気が宿っていた。その言葉に微かな救いを見出した慶一郎は小さく頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「リュウゲン、君の国まであとどれくらいだ?」
「東方帝国の黄金龍都までは、もう半日ほどです。そこまで耐えれば、必ず救いがあります」
しかしその言葉を遮るように、遠くから馬蹄の音と兵士たちの叫び声が響き渡った。西方神教連盟の追手が迫っている――彼らの怒号は、慶一郎たちの心をさらに締め付けた。
「急ぎましょう!」
リュウゲンの指示のもと、仲間たちは再び重い足を引きずりながら進み始めた。地平線の向こうから追手の叫びが響き渡り、緊張は高まる一方だった。
街道の途中、朽ち果てた神殿跡が見えてきた。その崩れた柱や壁は、かつての繁栄を静かに物語っている。そこに慶一郎たちは身を隠すように滑り込み、ひとときの休息を取ることにした。
彼らが息を潜めると、風に乗って遠くから敵兵たちの声が響いてきた。
「探せ! 料理人とその仲間を見つけ出せ!」
追っ手の足音が近づくにつれて、レネミアは息を止めて震え、マリエルは胸の前で十字を切り、静かに涙を流した。そんな仲間たちの姿に、慶一郎は激しい自責の念に駆られた。
(俺が、自由な料理を望んだからだ。こんな惨劇を生み出したのは……俺の責任だ)
己を責める慶一郎の胸を、鋭い痛みが刺すように襲う。その時、彼の背に柔らかなぬくもりがそっと触れた。
「慶一郎様……どうか自分を責めないで」
マリエルが涙声で囁いた。その声は震えながらも優しく、彼の傷ついた心を穏やかに撫でていった。
「私たちは、あなたの料理で救われたのです。あなたの心まで焼き尽くさないで……」
慶一郎の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。自分の料理が本当に人を救えるのか――その疑念はまだ消えない。それでも彼は、小さく頷いた。
「ありがとう、マリエル……」
その時、神殿の外で敵兵の足音が大きく響き、皆の呼吸が止まった。しかしその直後、風向きが変わり、遠ざかっていく声が聞こえ始めた。運命が、まだ彼らに味方しているかのようだった。
「今のうちです。黄金龍都まで急ぎましょう」
リュウゲンが低い声で促すと、皆は再び立ち上がった。痛みをこらえながら、彼らは静かに神殿跡を後にした。
数時間後、ついに丘を越えたその先に、黄金の輝きを放つ壮大な城壁が姿を現した。東方帝国の首都、黄金龍都――その美しい街並みが夕日に照らされ、傷ついた彼らの心に一縷の希望を灯した。
リュウゲンが穏やかな笑みを浮かべ、疲れ切った仲間たちに向き直る。
「ようこそ、黄金龍都へ。ここならば、皆様の傷を癒すことができましょう」
慶一郎はゆっくりと深呼吸をした。まだ戦いは終わっていない。だが、少なくとも今は、傷ついた仲間を癒すことが先決だった。
「行こう……みんな、ここで再起を図るんだ」
夕日の赤い光が彼らの背中を暖かく照らし、慶一郎たちは新たな一歩を踏み出した。その先に待つ運命を、まだ誰も知らないままに――。




