燃え広がる混沌(後編)
戦乱の風がメイラ近郊の大地を深く蝕んでいた。踏み荒らされて泥濘と化した平原は、もはやかつての面影すらない。打ち捨てられた鎧や剣、折れた槍が、悲惨な戦いの爪痕を無言で物語っている。兵士たちの悲痛な叫びが響き渡り、剣戟が交わるたびに慶一郎の心が張り裂けそうになる。
慶一郎は拳を強く握りしめ、自分が掲げた『自由な料理』が招いた惨状に打ちのめされていた。
「……どうして、こんなことに」
彼の横に立つレネミア王女の表情も蒼白だ。彼女は震える声で問いかける。
「慶一郎……これが本当に私たちの望んだことだったの?」
その背後で、聖女マリエルが静かに手を合わせ、ひたすら神に祈りを捧げていた。その表情は痛々しいほど切迫していた。
一方、戦場の向こうでは西方神教連盟の大軍が整然と隊列を組み、ゆっくりと圧迫を強めている。その先頭に立つ大聖女エレオノーラの瞳は、強い使命感の奥に、誰にも語れぬ迷いを秘めていた。
「総員、進軍せよ!料理の自由を許せば、世界は再び混乱と飢餓に包まれる!」
騎士隊長の号令により、西方神教連盟の兵士たちは再び剣を掲げ、雄叫びを上げて前進した。だが、エレオノーラの胸にはあの『灰と再生のスープ』の温かな香りが焼き付いて離れなかった。
――あの温かさを、もう一度感じたい。だがそれは禁断の願い。
彼女は自らの心を叱責し、迷いを振り払おうとした。
その頃、慶一郎は戦場の只中で静かに火を起こした。鍋を取り出し、灰のように荒れ果てた食材を慎重に選び、火加減を見極めながら調理を始めた。彼のその姿を見て、レネミアが驚きを隠せず駆け寄る。
「こんな状況で、あなたはいったい何を?」
「俺ができることは料理だけだ。でも、俺はそれで世界を救いたい。俺の料理は破壊のためじゃない――人を救うためのものなんだ」
彼の手が動くたびに、静かな湯気が鍋から立ち昇り、その柔らかな香りは次第に戦場に広がっていった。
その光景を見守っていたマリエルは、涙を流しながら祈りを捧げる。
「神よ、どうか慶一郎様の料理にあなたの祝福を――」
その瞬間、慶一郎の鍋が神々しい輝きを放った。優しく暖かな光は、慶一郎自身さえ驚かせた。
一方、西方神教連盟の陣営では、兵士たちがその香りに気付き動揺し始めていた。
「なんだ、この匂いは……?」
「昔、故郷で家族と囲んだ食卓の香りだ……」
騎士たちの動揺が広がる中、騎士隊長は焦ってエレオノーラに指示を求めた。
「エレオノーラ様、ご命令を!」
しかし、彼女は呆然と立ち尽くしていた。香りが呼び起こしたのは、封じ込めていたはずの過去の記憶。まだ幼い自分が家族と囲んだ食卓――あの温かく幸せだった日の光景だった。
「ああ……これは、あの日の香り……」
エレオノーラの瞳から涙がこぼれ落ち、頬を伝った。
――私は、料理の自由を憎んでいたのではなく、ただ怖れていただけなのかもしれない……。
一方、慶一郎の隣では東方帝国特使リュウゲンが、いつの間にか自らも鍋を取り出し調理を始めていた。その堂々たる姿は兵士たちの視線を一気に引きつける。
「慶一郎殿、あなたの覚悟に敬意を表します。私も共に料理を守りましょう」
二人の調理する姿を見て、自由陣営の兵士やメイラの市民たちも一斉に鍋や皿を手に取り、料理を始める。戦場はいつしか調理場と化し、その香りが憎しみを徐々に薄れさせていった。
しかし、平穏は長くは続かなかった。混乱する神々の対立した声が響き渡り、人々の心を再び揺さぶった。
『料理に自由を与えよ!人間の魂の表現を奪うな!』
『いや、料理に秩序を与えよ!自由こそが破滅を招く!』
再び戦場に混乱が戻り、秩序陣営の強硬派が我慢できず、矢を放ち剣を振り始めた。再び血と悲鳴が戦場を支配した。
「慶一郎、もうここは限界だ!撤退するぞ!」
リュウゲンが叫ぶ中、レネミアも必死に彼の手を取った。
「お願い、ここであなたを失うわけにはいかない!」
慶一郎は無念の表情で鍋を置き、後ろ髪を引かれる思いで撤退を決断する。
「だが、俺は必ず戻ってくる。この料理の力で、必ず世界を変えてみせる」
その声に、エレオノーラは静かに頷いた。彼女は自らの心に宿った迷いを抑えきれず、小さく決意を固めた。
「私は、自分が本当に守るべきものを見つけなければ……」
戦場に残されたのは、再び訪れた混乱と、料理がもたらした微かな希望の火だった。その火はまだ弱々しいが、決して消えることはなかった。
――その火はきっと、いつか世界を変える大きな炎になる。
その希望を胸に、慶一郎たちは次なる戦いへと向かって歩み始めたのだった。




