天の供儀と、正義の炎(前編)— 凄惨なる開戦
世界が一瞬、息を止めた。
東門がゆっくりと軋みを上げて開く。その向こうに、青と銀の親衛隊が整然と展開していた。その中央でレネミア王女は優雅に微笑みを湛えながら、冷酷な刃のような眼差しを街に向ける。
「我々の慈悲はここまでです。メイラの火は罪深き異端――もはや神の意志により浄化するほかありません」
その宣告はあまりにも穏やかだったが、間違いなく都市への死刑宣告だった。
「ふざけるな!」
都市防衛隊の隊長が声を震わせて叫んだ。震えは怒りではなく恐怖の色だった。兵士たちの間には絶望と諦念が混じり合い、誰もが死地を前にしていることを理解していた。
だがそれでも、隊長は拳を握りしめ、叫んだ。
「この街に生まれ、この街の火に育てられた俺たちは、決して侵略者の火など受け入れない! 戦うぞ!」
その叫びをきっかけに、親衛隊が一斉に動いた。彼らは無言で、感情を排した機械のように刃を突き出した。防衛隊の隊列が崩れ、激しい金属音とともに石畳に血が飛び散った。
街路は瞬く間に死と悲鳴に埋まった。民衆は逃げ惑い、女は子どもを庇いながら泣き叫び、老人は足をもつれさせて倒れた。
街路の隅では、兵士が倒れた仲間の遺体を抱え、「目を開けろ!」と泣き叫んでいた。
その地獄絵図の中央で、慶一郎だけが静かに火を焚き続けていた。
彼は震える手で鍋を掴み、無言でスープを作る。血が頬を伝い、煙が目を刺したが、彼は決して火を消そうとしなかった。
「慶一郎、もう無理よ……!」
ナリが絶望的な声で訴える。彼女の右腕は傷つき、赤く染まった包帯が血に濡れている。カレンは剣を振るって周囲を必死で守っていたが、既に体力は限界に達していた。
だが慶一郎は静かに言い返した。
「火を消せば、この街の魂も消える。それだけは譲れない」
そのとき、親衛隊の一人がナリに刃を振りかざした。彼女は咄嗟に目を閉じたが、痛みは訪れなかった。驚いて目を開けると、その兵士の刃を防いだのは、褐色の髪をなびかせたサフィだった。
「サフィ……!」
ナリが涙をこぼすと、サフィは微笑んだが、その横顔は苦痛に歪んでいた。彼女の腹部には親衛隊の刃が深く刺さっており、滴る血が石畳を赤く染めていた。
「もう嫌なの……これ以上、罪を犯したくない……」
サフィは力尽きて倒れ込む。その姿を見て、慶一郎の手が初めて止まった。
レネミア王女は戦闘の中を静かに進み出て、慶一郎を睨みつける。
「これがあなたの望む結果ですか? 抵抗など無意味なのに、なぜ……」
しかしその時、街の外縁から新たな軍勢が突如現れた。統制庁第三管理課――仮面の指導官が率いる軍団だった。
「終わりだ、メイラよ! もはや神も信仰も関係ない。この街は完全に焼き払う!」
彼らは即座に攻撃を開始し、親衛隊ごと都市を無差別に襲った。街路に再び絶叫が響き渡る。倒れる人々、燃え上がる家屋、散らばる遺体。
レネミア王女は混乱の中で立ちすくんだ。
「何をしているのですか! 即刻停止を命じます!」
指導官は冷たく笑った。
「あなたの役目は終わりました、殿下。これはもはや国家間の問題だ」
その時、王女の背後から刃が迫った。彼女が気付く前に、カレンが咄嗟にその前に身を投げ出し、代わりに背中を深く斬りつけられた。
「くっ……!」
倒れ込むカレンを抱きとめ、王女は震える声で叫ぶ。
「なぜ私を庇うの……私はあなたたちの敵なのに……!」
カレンは力なく微笑んだ。
「敵じゃない……ただ、あなたにも分かってほしかっただけ……慶一郎の火の意味を……」
戦場が再び激しさを増す中、慶一郎は怒りに満ちた表情で立ち上がった。
「もう、誰も死なせない……!」
彼は火の中から熱せられた鉄鍋を掴み、それを武器として敵兵に立ち向かい始めた。
熱い鉄が兵士を打ち倒し、彼の料理人としての誓いが怒りと共に街中に轟く。
その姿に触発され、倒れていた兵士や市民も次々と立ち上がった。
料理という名の焔が、確かに人々の心に再び灯っていた。
だがその背後では、仮面の指導官が不敵に笑い続けている。
「燃えろ、焼き尽くせ――二度と火など使えぬように!」
慶一郎はただ一人、怒りと絶望の渦中で叫んだ。
「この街の焔は消させない! 俺がここで、最後まで立ち続ける!」
凄惨な戦場は、終わりの見えない絶望の中で、さらに深い闇へと沈み込んでいった。




