自由なる火の皿(後編) - 天の供儀と、正義の炎
街の空気が一瞬で凍りついた。
親衛隊の隊列が展開し、鍋を囲む群衆は壁際へと押し込まれる。レネミア王女の淡い微笑みは凍てつき、聖女マリエルは静かながらも明確に告げた。
「神はこの街の火を許しません。ここに焔は不要なのです」
その言葉と同時に、親衛隊が動いた。彼らは街の人々を無慈悲に押し込み、火を起こした料理人たちに乱暴に手を伸ばす。
その様子を見ていたメイラ都市防衛隊の隊長が、ついに立ち上がった。
「これは我々の街だ! この火を消す権利は、たとえ神でも許さん!」
その宣言を合図に、メイラ防衛隊と親衛隊の小競り合いが始まった。鍋が弾け飛び、火が広がり、石畳が煙を上げた。
慶一郎はその中央でなおも調理を続けていた。彼はスープを静かにかき混ぜながら、決して動揺することなく呼びかけた。
「火を囲むことは罪じゃない。ただ腹が減った者に飯を作るだけだ。俺たちは誰とも戦わない」
その言葉は、激しい衝突の中で、ひときわ響いた。
混乱の中、レネミア王女の視線が慶一郎に固定される。
彼女は心の奥底でかすかな動揺を感じていた。親衛隊の冷酷な攻撃や、市民が抵抗し傷ついていく姿を見て、彼女の中の「正義」は初めてぐらついていたのだ。
聖女マリエルが焦りを含んだ声で彼女を制止した。
「殿下、ここで情をかければ世界の調律は崩れます。彼らの火は秩序を乱す異端の焔です」
その時、統制庁第三管理課の仮面の指導官が、城壁の影から静かに微笑んでいた。彼は冷たく、そして酷薄に呟く。
「よし、十分だ。全隊、《炉底洗浄》を開始せよ」
その指令を受けた統制庁の兵士が突如として出現し、周囲の親衛隊すらも驚かせるような残虐さで火を消し、人々を拘束し始めた。彼らは親衛隊ですらも動揺させるほどの冷酷さを示していた。
レネミア王女が戸惑いを隠せないまま、仮面の指導官を問い詰める。
「これは何のつもりですか!?」
「殿下、これはあなた方が望んだことです。我々は火を消すのみ。神の意志を執行するのが我々の役目です」
混乱が深まる中、慶一郎の料理が完成した。湯気が漂い、香りが立ち昇る。それは暴力や争いを超え、街に生きるすべての者の鼻腔を刺激した。
傷ついた兵士や市民が倒れ込み、料理を口にする。そして彼らは涙を流し、その場に膝をついた。
「何だこれは……」
親衛隊の兵士の一人が、料理を口に運び、涙を落とした。その姿を見て他の兵士も動きを止め、次々と武器を落としていった。
聖女マリエルもその香りを吸い込み、小さく震えた。
「これは、神が拒絶したはずの火ではない……」
その光景を見たレネミア王女の瞳からは、はっきりと涙が溢れ出していた。彼女は、己が掲げてきた正義の根拠が崩れ去っていくのを感じていた。
「私たちは間違っていた……のかもしれない」
だが、その時だった。
仮面の指導官が軽蔑するように笑い、一枚の書類を掲げた。
「殿下、あなたが迷うなら我々が決断します。これは国家間の条約に基づく正式な宣戦布告です。これよりメイラは、サン=レア連邦に対する反乱都市と見なし、武力鎮圧の対象とする!」
その言葉は、街の人々にも親衛隊にも衝撃を与えた。
「何を勝手なことを……!」
王女の叫びは掻き消され、瞬く間に新たな親衛隊がメイラ全域に展開する。街の四方八方から火が上がり、煙が濃く立ち込める。メイラの街は、一瞬で本当の戦場と化したのだった。
その混乱の渦中、聖女マリエルが小さく呟く。
「これは……神が望んだことではない……」
慶一郎はその言葉を背中で聞きながら、ただ黙々と傷ついた者たちに料理を提供し続けた。
混乱と炎の中で、火の供儀団――慶一郎、カレン、ナリ、アリシアはただ一つの決意を固めていた。
火は消さない。この料理を守るためなら、どんな火にも立ち向かう。
それが彼らの誓いであり、決して消えない焔の意志だった。
――メイラは今、真の意味で自由なる火の皿を巡る決戦の地となった。




