虚無と調和(第1部 / 最後の試練)
世界修復の儀式から一週間が過ぎた朝、第三都市は完全に平和を取り戻していた。街の至る所で人々が幸せそうに生活し、愛と調和に満ちた日常が戻ってきている。
朝の空気は水晶のように澄み切り、薄緑色の霧が街を優しく包んでいた。石畳には朝露がダイヤモンドのように輝き、花壇からはライラックの甘い香りが風に乗って漂ってくる。鳥たちの美しいさえずりが空に響き、新しい生命の喜びを歌っているかのようだった。
しかし、その平和な朝に、慶一郎は一人で街の外れにある古い遺跡を訪れていた。そこは『調和の神殿』と呼ばれる場所で、古代から料理人たちが修行を積んだ聖地だった。
神殿の中は静寂に包まれ、色とりどりのステンドグラスから差し込む光が、床に美しい模様を描いている。空気は香木の匂いに満ち、どこか懐かしい温もりを感じさせた。
「一人で来たのですね」
突然、神殿の奥から声が響いた。現れたのは、見知らぬ老人だった。しかし、その瞳には深い知恵と、測り知れない力が宿っている。
「あんたは誰だ?」慶一郎が警戒した。
「私は調和の神、ハルモニウス」老人が穏やかに答えた。「あなたに最後の試練を与えるために現れました」
「最後の試練?」
「はい。真の調和の炎を手に入れたあなたには、まだ一つだけ乗り越えなければならない壁があります」ハルモニウスが説明した。「それは、自分自身の中にある虚無との対峙です」
慶一郎が困惑した。「俺の中の虚無?」
「すべての人間の心には、愛と同時に虚無も宿っています。それは自然なことです」ハルモニウスが静かに語った。「しかし、真の調和を達成するには、その虚無と向き合い、愛に変えなければなりません」
神殿の中央に、大きな鏡が現れた。しかし、その鏡に映っているのは慶一郎ではなく、全身が黒い炎に包まれた別の存在だった。
「これは…」慶一郎が驚いた。
「あなたの中の虚無の化身です」ハルモニウスが説明した。「彼と戦い、愛の力で浄化しなさい」
鏡から現れた虚無の慶一郎は、本物の慶一郎と全く同じ姿をしていた。しかし、その瞳は冷たく、全身から絶望の気配を放っている。
「よお、俺」虚無の慶一郎が嘲笑的に言った。「ずいぶん立派になったじゃないか」
「あんたは何だ?」慶一郎が身構えた。
「俺はお前だよ。お前の心の奥底に隠れていた、本当の気持ちさ」虚無の慶一郎が暗い笑いを浮かべた。「愛だの調和だの、きれいごとばかり言ってるが、本当は違うだろ?」
「何を言ってる?」
「お前だって、時々思うだろ?『なんで俺ばかりが苦労しなければならないんだ』『なんで俺が世界を救わなければならないんだ』って」虚無の慶一郎が核心を突いた。
慶一郎の心に、確かにそんな気持ちがあったことを思い出した。ユートピア連邦との戦い、ヴォラックスとの対決、アルヴィオンとの闘争…すべてに疲れた瞬間があった。
「ほら、認めただろ?」虚無の慶一郎が勝ち誇った。「お前も俺も、本当は楽をしたいんだ。責任なんて放り出して、誰かに甘えていたいんだ」
「それは…」慶一郎が動揺した。
「エレオノーラだって、マリエルだって、セリュナだって、本当はお前を愛してるわけじゃない」虚無の慶一郎が続けた。「お前の料理の力が欲しいだけさ。力がなくなったら、きっと離れていく」
「そんなことはない!」慶一郎が叫んだ。
「本当か?試してみろよ」虚無の慶一郎が挑発した。「調和の炎を捨てて、ただの人間に戻ってみろ。それでも愛してくれるかな?」
慶一郎の心に迷いが生まれた。確かに、自分の価値は料理の力にあるのではないかという不安があった。




