焔の審判、戦火の口づけ
香りがゆらめき、静寂が破れたのは、わずか一瞬のことだった。
慶一郎がかけた鍋から湯気が立ち昇り、街路に漂ったその刹那、レネミア王女の瞳がわずかに揺らいだのを兵士たちは見逃さなかった。
「動くな!」
親衛隊の隊長が低く鋭く命じた。彼らは一瞬で戦闘態勢をとり、鞘から音もなく剣を引き抜いた。メイラの街を包囲するように展開し、その動きは熟練を通り越して機械的な冷たさを帯びていた。
「神の名において命じます。この街の焔は逸脱しています。火を消しなさい!」
聖女マリエルが叫ぶように言うと、レネミアが右手を掲げた。その瞬間、街の四方から大きな破砕音が轟き、逃げ場が次々と封じられていく。城門が再び閉じられ、街路を遮断する柵が瞬時に張られたのだった。
しかしその圧倒的な威圧感の中、静かに、しかしはっきりとした声が響いた。
「火を消すな!」
声を上げたのは街の住民たちだった。鍋を持った年老いた商人、手に箸を握りしめる若い女、そして子どもを庇うようにして立つ母親。
彼らの目にははっきりとした恐怖と怒りが混じっていた。
レネミア王女は柔らかな笑みを浮かべながら、どこか悲しそうに言った。
「あなた方が守っているものは、本当に守る価値がありますか? 火は恐ろしいものです。その炎は、あなた方の心を焼き尽くすでしょう」
それでも慶一郎は鍋の前を動かない。背後でカレンが静かに剣を抜き、ナリは片手で料理道具を握りしめ、アリシアは決意を秘めた瞳でじっと前を睨んでいた。
慶一郎はただ一言、冷静に告げた。
「俺たちは料理人だ。武器は持たない。だが、火を消すならその前に俺たちを倒してからにしろ」
その瞬間、親衛隊の兵士たちが一斉に前に踏み込んだ。
カレンが瞬時に剣を振るい、火花が散った。彼女は剣技で道を切り開き、ナリは炎のついた薪を放り投げ、兵士たちの視界を煙で覆う。アリシアは食器棚を倒して即席の障害物を築きあげた。
一方で、聖女マリエルが低い声で呟く。
「これは聖戦です。神の名の下に行われる戦いに敗北はありません!」
その声に呼応するように、兵士たちは冷酷に攻撃を強める。街の人々も次第に巻き込まれ、静かなメイラは瞬く間に混乱した戦場と化した。
戦いの最中、レネミア王女は戦闘の場から一歩も動かなかったが、次第にその表情が曇り始めていた。
兵士が老人に乱暴に手を伸ばすのを見て、彼女は微かに眉をひそめた。子どもが怯えて泣く姿に、静かな目の底が揺らいだ。
その時、城門側から新たな一団が姿を現した。
「殿下!」
それはメイラ都市防衛隊の隊長だった。彼らは親衛隊と真正面から対峙し、その顔には静かな決意が宿っていた。
「火を消すことを許可した覚えはありません。我々はこの街の焔と共に生きてきた。それを奪わせはしない!」
隊長の声に、街の人々が一斉に立ち上がった。料理道具や薪を手に、彼らは親衛隊を取り囲む。軍靴の音が入り混じり、怒声が飛び交った。もはや小競り合いではなく、本格的な軍事衝突へと展開しつつあった。
レネミアはその混乱を呆然と見つめながら呟いた。
「これは……私が望んだことではない……」
その傍らで聖女マリエルが強く言い返す。
「殿下、心を強くお持ちください。これは神の意志です!」
だがその混乱の渦中、倒れた兵士や傷ついた住民を見て慶一郎は火の前で静かに料理を続けていた。激しい戦闘の真っただ中で、彼はただひたすらスープをかき混ぜ、傷ついた人々に差し出した。
「食え。戦うのはその後でも遅くない」
彼の料理を口にした兵士や市民は、言葉を失ったように涙を流し、剣や武器を落としてその場に膝をついた。
その光景に、レネミア王女は心が揺れた。
「私たちは……何をしているの……」
呟く彼女の瞳からは、初めて動揺の涙がこぼれ落ちた。
街の中央、炎の傍で、戦いは音もなく終息し始めていた。慶一郎の料理がもたらしたものは武器を超え、正義を超え、人間の心をひとつに繋ぐ強い絆だった。
だがその陰で、冷たく笑う者がいた。
統制庁の仮面の指導官は、この混乱を離れた場所から静かに眺めていた。
「これで準備は整った。あとは、この街を完全に焼き尽くすだけだ」
それが新たな戦火の口火になることを、誰もまだ知らなかった――




