魂素の海へ(第1部 / 汚染された海)
夜明け前の第三都市は、静寂と緊張に包まれていた。昨夜のアルヴィオンとの対話により、虚無の攻撃は一時的に止んでいたが、世界各地では依然として記憶と絆を失った人々が混乱の中にいた。
朝靄が街を覆い、石畳には真珠のような露がびっしりと降りている。空気は水晶のように透明で冷たく、肺に吸い込むと薄荷のような清涼感が広がった。遠くから届く鐘の音が、霧の中を幽玄に響いている。
慶一郎は中央神殿の地下深くで、再び魂素の海への準備を整えていた。今度の目的は、アルヴィオンの虚無の力を完全に浄化し、世界中に散らばった虚無の影響を根本から除去することだった。
「慶一郎様、本当に大丈夫なのでしょうか?」エレオノーラが心配そうに尋ねた。天使の翼は昨夜の戦いで疲労し、いつもの純白の輝きが薄れている。
「前回よりもはるかに危険です」ナリが科学的データを示しながら警告した。「アルヴィオンの虚無の力は世界規模に拡散しており、魂素の海も深刻な汚染を受けています」
慶一郎は決意を固めていた。「でも、やらなければならない。世界中の人々が記憶と愛を取り戻すために」
セリュナが不安そうに慶一郎の手を握った。「今度こそ、私も一緒に行かせてください。父上のことは、娘である私が責任を持ちます」
「セリュナ…」慶一郎が迷った。
「お願いします」セリュナの瞳に決意の光が宿っている。「父上の心を完全に癒すには、娘の愛が必要です」
マリエルが愛のペッパーミルを握りしめながら提案した。「それでしたら、私たちも魂の一部を魂素の海に送りましょう。慶一郎様とセリュナさんを支えるために」
「私も賛成です」エレオノーラが天使の翼を広げた。「天界の力の一部を、お二人に託します」
ヴォラックスが古代龍としての知識を提供した。「複数の魂が同時に魂素の海に入ることは可能だが、極めて危険だ。一人でも道を見失えば、全員が虚無の海に飲み込まれる」
「でも、一人よりも四人の方が、愛の力は強いはずです」セリュナが確信を込めて言った。
古老ヴァルガンが最終的な助言をした。「ならば、四人の魂を一つの光として結合せよ。調和の炎、天使の光、聖女の愛、古代龍の絆…すべてを一つにすれば、虚無にも負けない」
四人は手を繋ぎ、それぞれの力を最大限に解放した。慶一郎の調和の炎、エレオノーラの天使の光、マリエルの神聖な愛、セリュナの古代龍の魂…四つの力が混じり合い、これまで見たことのない美しい光を生み出した。
その光に包まれて、四人の意識は同時に魂素の海へと向かっていった。
魂素の海は、前回とは全く異なる光景を呈していた。本来美しい金色と虹色の波で満たされていた海は、今や半分以上が黒い虚無の渦に侵食されている。愛の源泉も暗い雲に覆われ、世界への愛の供給が細々としたものになっていた。
「これは…ひどい状況ですね」エレオノーラが魂の声で呟いた。
「愛の源泉が…」マリエルが悲しそうに見つめた。
セリュナが古代龍の魂の力で海の状況を分析した。「父上の虚無の力が、根源的な部分まで侵食しています。このままでは、世界中の愛が消失してしまいます」
四人は一つの光となって、虚無の渦を避けながら愛の源泉へと向かった。しかし、海の奥深くで、アルヴィオンの巨大な意識が待ち受けていた。
『来たか…我が娘よ、そして愚かな者どもよ』
アルヴィオンの声は、魂素の海では現実世界以上に強大だった。
『この海を完全に虚無で満たし、世界からすべての愛を消し去る。それが、裏切られた者たちへの最後の慈悲だ』
「お父様、やめてください」セリュナが必死に呼びかけた。「愛は裏切りではありません」
『セリュナ…お前だけは別だ。お前だけは、虚無の外で生きるがいい』
しかし、慶一郎が前に出た。「アルヴィオン、あんたの痛みは理解できる。でも、エリシアが本当に望んでいたのは、あんたが虚無になることか?」
アルヴィオンの虚無の渦が激しく揺れ動いた。
『エリシア…』
その時、四人の愛の力が共鳴し、魂素の海に奇跡を起こした。愛の源泉から、エリシアの魂の記憶が立ち上がったのだ。




