父の名(第3部 / 虚無の真実)
魂素の海の最深部で、慶一郎はアルヴィオンが虚無の力に取り憑かれた瞬間の記憶にたどり着いた。
エリシアを失った絶望の中で、アルヴィオンは古代の禁術に手を染めていた。それは愛の記憶を完全に消去し、痛みから逃れるための究極の術だった。古代龍族に伝わる『記憶封印の術』を、愛の記憶に適用したのだ。
魂素の海に、その時の光景が再現された。絶望に打ちひしがれたアルヴィオンが、古代の祭壇で禁術を行っている。祭壇の上には、エリシアとの愛の記憶が結晶化した宝石が置かれ、それを虚無の力で消し去ろうとしていた。
『エリシアよ…愛していた…だが、もう耐えられない…この痛みに…』
アルヴィオンが術を発動した瞬間、予期しない現象が起こった。愛の記憶を消去するエネルギーが、術者の予想を超えて強力だったのだ。しかし、愛を消そうとしたエネルギーが反転し、虚無の力として暴走し始めた。
『愛を消そうとした力が、虚無になった…』慶一郎が真実を理解した。
『そうだ…』アルヴィオンが苦しげに認めた。『愛から逃れようとして、より大きな呪いに囚われた。愛を否定するエネルギーが、私の魂を虚無で満たしていく…』
魂素の海で、虚無の力の正体が明らかになった。それは愛の対極ではなく、愛を否定しようとするエネルギーが歪んだ形で結晶化したものだった。愛があるからこそ生まれる否定のエネルギー、愛を失うことへの恐怖が極限まで高まった時に発生する破壊的な力。
『つまり、あんたの虚無の力の根源は、愛なんだ』慶一郎が核心を突いた。
『何だと…』
『愛を否定しようとする力も、愛があるからこそ生まれる。あんたは愛を憎んでいるんじゃない。愛を失うことを恐れているんだ』
アルヴィオンの虚無の渦が激しく揺れ動いた。慶一郎の言葉が、彼の心の奥底の真実を暴いていた。虚無の仮面の奥で、愛に対する深い恐怖と憧憬が渦巻いているのが見えた。
『私は…愛を恐れているのか…』
『そうだ。セリュナが人間を愛することを止めようとするのも、彼女が自分と同じ痛みを経験することを恐れているからだ。でも、愛することから逃げ続けても、何も生まれない』
慶一郎が愛の源泉の力を使って、特別な料理を作り始めた。魂素の海での料理は、現実世界とは異なる。材料は愛の記憶そのもので、調理法は魂の調和だった。
それは『恐れを癒す愛の料理』で、愛することへの恐怖を取り除く力を持っていた。料理の香りは目に見える光となって魂素の海に広がり、虹色の波紋を作りながら、アルヴィオンの虚無の渦に近づいていく。
香りは懐かしい記憶を呼び起こす。エリシアの手料理の匂い、セリュナが幼い頃に作ったお団子の匂い、家族三人で過ごした幸せな食卓の記憶。それらの香りが組み合わさり、愛することの喜びを思い出させる。
料理の香りが魂素の海に広がると、アルヴィオンの虚無の渦が少しずつ穏やかになっていく。黒い鎖のような渦が、ところどころで深緑色の光を見せ始める。
『この香りは…恐怖が消えていく…愛への恐れが薄れていく…』
『愛することは確かにリスクだ』慶一郎が静かに語った。『失う可能性もある。でも、愛さないリスクの方がずっと大きい。あんたはエリシアとの愛の記憶を完全に消して、何を得た?』
『何も…ただの虚無だけ…』アルヴィオンが認めた。
『セリュナは違う。俺やエレオノーラ、マリエルとの愛を通じて、幸せを見つけた。あんたが恐れた道を歩んで、幸福を掴んだんだ』
魂素の海に、セリュナの幸せな記憶が映し出された。慶一郎との出会い、告白、結婚、そして魂の結合。彼女の笑顔が、父親の心を温かく照らした。夕日のように美しいセリュナの微笑み、古代龍としての誇りと女性としての幸せが両立した表情。
『セリュナは…幸せなのか…』
『ああ。そして、あんたのことを愛している。虚無の王としてじゃない。父親として愛している』
アルヴィオンの虚無の渦の中心で、小さな光が生まれ始めた。それは完全に消去されたと思われていた、愛の記憶の欠片だった。エリシアとの最初の出会い、セリュナの産声、家族で過ごした温かな日々…すべてが光の粒となって蘇り始める。
『エリシア…私は愛を忘れようとしていた…だが…』
『忘れる必要はない』慶一郎が優しく言った。『痛みも含めて、愛の記憶だ。それがあんたを人間らしく…いや、龍らしくしてくれる』




