父の名(第1部 / 魂素の海へ)
深夜、第三都市は不気味な静寂に包まれていた。アルヴィオンとの対話の後、虚無の攻撃は一時的に止んでいたが、失われた絆と記憶の回復には、さらなる根本的な治療が必要だった。街の至る所で、記憶を失った人々が困惑しながら彷徨っている。家族同士でありながら互いを認識できない悲劇が、暗闇の中で静かに続いていた。
慶一郎は中央神殿の地下深くにある、魂素の海への入り口に立っていた。古代から伝わるこの神聖な場所は、まるで時が止まったかのような厳粛な雰囲気に包まれている。石造りの壁は何千年もの歴史を刻み、その表面には古代の文字が金色に光りながら刻まれ、神秘的な輝きを放っていた。空気中には魂素の粒子が金色と虹色の光を帯びながら舞い踊り、まるで星屑のように美しく、かすかな鈴の音のような響きを立てながら旋回している。
石の床は滑らかに磨かれ、足音が神聖に響く。壁龕には古代龍族の魂素が保管されており、それぞれが微かに脈動しながら、数千年分の記憶を宿している。空気は清浄で、どこか懐かしい香り——母なる大地の匂い、古い書物の匂い、そして愛する人の温もりを思わせる匂い——が漂っている。
「本当に大丈夫なのか?」エレオノーラが心配そうに尋ねた。彼女の記憶は部分的に回復していたが、まだ断片的で、不安そうな表情を浮かべている。天使の翼も、いつもの純白の輝きが薄れている。
「魂素の海は危険な場所です」ナリが科学的な警告をした。彼女の手には、魂素学の分析装置があり、複雑な数値が表示されている。「意識だけで入るとはいえ、迷子になれば二度と戻れません。特に、アルヴィオンの虚無の力が海にも影響を与えている現在は…」
慶一郎は決意を固めていた。「アルヴィオンの虚無の力に対抗するには、失われた絆と記憶を完全に復元する必要がある。そのためには、魂素の海の根源的な力…愛の源泉そのものの力が必要だ」
マリエルが愛のペッパーミルを握りしめながら祈った。部分的に記憶を取り戻した彼女の瞳には、慈愛の光が戻っている。「神様、慶一郎様をお守りください。そして、すべての愛する人たちをお守りください」
セリュナが不安そうに慶一郎の手を握った。「私も一緒に行きます。父上のことは、私にも責任があります」
「いや、あんたは残ってくれ」慶一郎が優しく首を振った。「もしアルヴィオンが戻ってきたら、あんたが対話するしかない。それに、俺が迷子になった時、あんたの愛の記憶が道しるべになる」
ヴォラックスが古代龍としての知識を提供した。「魂素の海では、時間の概念が曖昧になる。現実世界の数分が、向こうでは数時間、時には数日に感じられることもある。迷わず、愛の記憶だけを頼りに進め」
古老ヴァルガンも重要な助言をした。「憎しみや絶望の記憶に引きずられれば、虚無の海に落ちる。常に愛の光を心に宿し、その輝きを失うな」
慶一郎が目を閉じ、調和の炎を最大限に燃やした。炎は虹色に輝き、これまで以上に美しく、魂素の粒子と共鳴しながら、彼の意識を魂素の海へと導いていく。炎の温かさが全身を包み、現実世界の重力から解放される感覚が訪れる。
意識が肉体を離れた瞬間、慶一郎は息を呑むような光景に出会った。
魂素の海は想像を超えて美しかった。無限に広がる光の海で、金色、銀色、虹色の波が永遠に打ち寄せている。波の一つ一つが愛の記憶でできており、触れると世界中の人々の幸せな瞬間が心に流れ込んでくる。海面からは暖かな光が立ち上り、まるで愛そのものが可視化されたかのような美しさだった。
しかし、その美しい海の所々に、黒い渦があった。それがアルヴィオンの虚無の力が魂素の海にも影響を与えている証拠だった。黒い渦は愛の記憶を吸い込み、無に帰そうとしている。渦に近づくと、絶望と孤独感が波のように押し寄せてきた。
(ここが魂素の海か…美しいが、危険でもある)
慶一郎は愛の記憶を頼りに、海の深部へと向かった。エレオノーラとの初めての料理、マリエルとの結婚、セリュナとの魂の結合…大切な記憶が道標となって、彼を正しい方向に導いてくれる。愛の記憶は金色の光の道となり、虚無の渦を避けながら安全な航路を示している。
しかし、進むにつれて、危険は増していった。虚無の渦が慶一郎の意識を引き寄せようと、漆黒の触手を伸ばしてくる。一つでも触れれば、彼の愛の記憶も虚無に飲み込まれるだろう。慶一郎は調和の炎を盾として、金色の光の道筋を必死に辿っていく。
『誰だ…この神聖な海に侵入する者は…』
突然、虚無の渦から威圧的な声が響いた。それはアルヴィオンの声だったが、現実世界で聞く声よりもはるかに苦しみに満ち、絶望の深さを物語っていた。
『我は愛の源泉を汚染し、すべての愛を無に帰さんとする者…邪魔立てするな…』
慶一郎が勇気を振り絞って答えた。『俺は慶一郎だ。あんたの娘セリュナの夫だ。あんたを救いに来た』
『セリュナの…夫…』アルヴィオンの声に動揺が混じった。虚無の渦が激しく渦巻き、中から苦悩に満ちた呻き声が聞こえてくる。『なぜここに…この虚無の海に…』
『あんたを救うためだ』慶一郎が真実を告げた。『愛は裏切りなんかじゃない。希望なんだ。それを証明しに来た』
魂素の海で、ついに慶一郎とアルヴィオンの真の対話が始まった。しかし、海の最深部には、さらなる驚くべき光景が待っていた。




