失われゆく絆(第4部 / 父への愛)
夕暮れが近づく頃、アルヴィオンの攻撃は一時的に止んでいた。しかし、世界各地の被害は深刻で、多くの人々が記憶や絆を失い、混乱に陥っていた。街のあちこちで、家族が互いを認識できずに立ち尽くしている光景が見られる。
第三都市の中央広場で、セリュナは一人立っていた。夕陽が西の空を深い橙色に染め、その光が彼女の銀色の髪を液体の金属のように輝かせている。一筋一筋の髪が琥珀色の光を纏って風に舞い、石畳に落ちる彼女の影は長く伸びて、古代龍の威厳と一人の娘としての愛情が交錯する複雑な表情を際立たせていた。
仲間たちの記憶は部分的に回復したが、まだ完全ではない。それでも、セリュナだけは娘としての使命感を胸に、父との対話を決意していた。風は涼しく、どこか遠くから花の香りを運んでくるが、その中に混じる虚無の気配——存在を否定する冷たい匂い——が不安を掻き立てる。
「お父様」セリュナが空に向かって呼びかけた。その声は、千年の時を超えた愛に満ちていた。「お話ししましょう」
暗雲がゆっくりと現れ、その中からアルヴィオンの巨大な龍の姿が姿を現した。虚無に侵食された漆黒の鱗、光を吸い込む紫の瞳、翼の端は虚無的な暗黒に染まっている…それでも、セリュナには父親の面影が見えた。あの優しかった父の輪郭が、虚無の奥に隠れているのを感じ取れた。
『セリュナ…我が娘よ』アルヴィオンの声に、わずかに父親らしい温かさが戻った。虚無の冷たさの奥に、愛する娘への愛情が微かに残っている。『なぜ人間などと…なぜ我が血を汚すような真似を…』
「お父様」セリュナが涙を流しながら答えた。その涙は、夕日に照らされてダイヤモンドのように輝いている。「私は幸せです。慶一郎様は、本当に私を愛してくださっています。エレオノーラ様も、マリエル様も、温かく迎え入れてくれました」
『愛など…いずれ裏切られる』アルヴィオンの声は悲しみに満ちていた。長年の絶望が、言葉の端々に滲み出ている。『私がそうであったように…愛する者は必ず去っていく…』
「お母様エリシア様は、お父様を裏切ったのですか?」セリュナが核心を突いた。
アルヴィオンの巨大な体が震えた。虚無に覆われた鱗が、一瞬だけ本来の深緑色を取り戻したように見えた。『エリシアは…エリシアだけは…違った…』
「お母様は最期まで、お父様を愛していました」セリュナが幼い頃の記憶を語った。「私にも、よく話してくれました。『お父様は世界で一番優しく、一番強い龍』だと。『お父様のような立派な龍になりなさい』と」
『嘘だ…愛など虚構…信じれば必ず裏切られる…』
「お父様の心の奥底に、まだお母様への愛が残っているはずです」セリュナが必死に訴えた。「虚無の力で忘れたつもりでも、魂の核の記憶は消せません。お母様への愛、私への愛、きっと残っています」
アルヴィオンの瞳に、わずかに涙が浮かんだ。虚無の龍でありながら、父親としての愛情がまだ残っていたのだ。
『エリシア…愛しき妻よ…お前は本当に私を愛していたのか…最期の時まで…』
「はい」セリュナが確信を込めて答えた。「そして、お父様が私を愛してくださったように、慶一郎様も私を愛してくださっています。愛は裏切りではありません。希望です。光です。未来です」
その時、慶一郎が現れた。調和の炎を燃やしながら、ゆっくりとセリュナの隣に立った。虹色の炎が夕暮れの光と混じり合い、幻想的な光景を作り出している。
「アルヴィオン」慶一郎が静かに語りかけた。べらんめえ調を抑えて、心からの真実を語る。「あんたの娘を愛している。永遠に愛し続ける。それを証明させてくれ」
慶一郎が特別な料理を作り始めた。それは『失われた愛の記憶』と名付けられた料理で、虚無に消された愛の記憶を蘇らせる力を持っていた。調和の炎から立ち上る香りは、この世のものとは思えないほど美しく、その中にエリシアとアルヴィオンの幸せだった記憶が込められていた。
二人が初めて出会った日の森の香り、愛を誓った日の花の香り、セリュナが生まれた日の温かな陽だまりの匂い…すべての幸せな記憶が、香りとなって空に舞い上がった。
『この香りは…エリシアの…』アルヴィオンの声が震えた。虚無の冷たさが、わずかに和らいでいる。
料理の香りに誘われて、アルヴィオンの魂の奥底に眠っていた愛の記憶が蘇り始めた。虚無の力で封印されていた、妻への愛、娘への愛、そして生きとし生けるものへの愛が。
しかし、それは同時に、アルヴィオンの虚無の力を不安定にすることでもあった。愛と虚無が激しく対立し、彼の巨大な体が激しく震え始めた。鱗が深緑色と漆黒の間で激しく変化し、瞳も青と紫の間で揺れ動く。
『やめろ…思い出したくない…愛は痛みしか生まない…愛すれば必ず失う…』
「お父様」セリュナが涙ながらに叫んだ。「愛は痛みだけではありません。喜びも、希望も、未来も生みます。私がその証拠です。お父様とお母様の愛の結晶が、今ここにいます」
夜空に星が現れ始めた頃、父と娘の真の対話が本格的に始まろうとしていた。虚無と愛の狭間で揺れるアルヴィオンの心に、ついに光が差し込み始めたのだ。




