失われゆく絆(第3部 / 魂の奥底で)
慶一郎は調和の炎の力で、自分の意識を魂の最深部へと向かわせた。そこには、虚無の力でも消去できない、最も大切な記憶が眠っていた。
魂の奥底は、まるで古い聖堂のように静謐で神聖な空間だった。高い天井からは柔らかな金色の光が差し込み、床には無数の光の結晶が散らばっている。それらは本ではなく、大切な記憶が結晶化したものだった。それぞれが温かな輝きを放ち、触れると当時の感情が鮮やかに蘇ってくる。空気は澄んでいて、どこか懐かしい香り——母の手料理の匂い、恋人の髪の香り、友との語らいの場所の匂い——が漂っている。
慶一郎は、最も輝いている記憶の結晶に手を伸ばした。
エレオノーラとの最初の出会い…彼女が料理を食べて涙を流した瞬間。冷たい雨の降る夜、教会で震えていた天使が、慶一郎の温かい料理によって初めて人間の愛を知った瞬間。その時の彼女の瞳に宿った驚き、感動、そして慈愛の光。天使としての秩序への疑問から、愛による調和への転換。彼女の純粋な心と、人間への深い愛情。
マリエルとの出会い…愛のペッパーミルの神聖な力に導かれた運命的な邂逅。聖女としての使命と、一人の女性としての愛情。神への信仰と人間への愛を両立させた彼女の強さ。初めて慶一郎に料理を作ってもらった時の、純真な喜びの表情。
そして、セリュナ…千年の孤独を経た古代龍が、初めて恋を知った瞬間。誇り高い龍族の女王が、一人の人間男性に心を開いた奇跡。昨夜の『魂の結合』で交わした永遠の誓い。月光の下で語り合った愛の言葉、肌を重ねた時の温もり、魂が一つになった時の至福感。彼女の誇り高い魂と、愛に対する純粋さ。
「思い出した…みんなとの大切な記憶を」慶一郎の調和の炎が力強く燃え上がった。今度は虚無の影響を完全に押し返し、虹色の美しい輝きを放っている。
炎の力で、慶一郎は仲間たちの魂の奥底にアクセスした。虚無の力で表面的な記憶は消されても、魂の核の記憶は残っている。
「エレオノーラ」慶一郎が天使の手を取った。彼女の手は冷たくなっていたが、慶一郎の温もりが伝わると、わずかに震えた。「思い出せ、あんたが初めて俺の料理を食べた時のことを」
エレオノーラの瞳に、わずかに光が戻った。混乱していた表情に、かすかな認識の光が宿る。「あの時…私は初めて、愛の味を知りました。温かくて、優しくて、私の心を溶かしてくれた味…」
「マリエル」慶一郎が聖女の手を取った。愛のペッパーミルが、慶一郎の調和の炎に呼応して微かに光った。「愛のペッパーミルの本当の力を思い出せ」
マリエルのペッパーミルが神聖な光を放った。「愛の女神様…私の使命を…人々に愛を伝える使命を…」記憶の断片が戻り始める。
「セリュナ」慶一郎が最愛の妻の手を取った。彼女の手は震えていたが、慶一郎の手に触れると、魂の奥底で何かが呼応した。「昨夜の『魂の結合』を思い出せ。俺たちの魂は一つになったんだ」
セリュナの体が大きく震えた。「慶一郎様…私の愛する…心の奥で、あなたの名前が響いています」
一人ずつ、魂の奥底の記憶が蘇り始めた。虚無の力で表面は消されても、愛の本質は魂の核に刻まれていたのだ。
レネミア、カレン、サフィ、ナリ、ザイラス、リーザ、アベル、ガルス…仲間たち一人一人の記憶が、調和の炎の力で徐々に回復していく。
しかし、全員の記憶を完全に回復させるには、慶一郎の力だけでは限界があった。調和の炎も、これほど多くの魂に同時にアクセスすることで、急速に消耗していく。
『無駄な足掻きよ』アルヴィオンの声が響いた。『一時的に記憶を戻したところで、虚無の前では無力。愛など、所詮は幻想に過ぎぬ』
さらに強力な虚無の光線が降り注ぎ、せっかく回復した記憶も再び薄れ始めた。仲間たちの瞳から、ようやく戻りかけた認識の光が消えていく。
「このままじゃ…」慶一郎が限界を感じていた時、意外な助けが現れた。
古老ヴァルガンが古代龍の真の姿を現し、強力な結界を展開したのだ。巨大な銀龍の姿となったヴァルガンが、翼を広げて虚無の光線を遮る。
「セリュナよ」ヴァルガンが古代龍の言葉で呼びかけた。『お前の父上の心を救えるのは、お前だけだ。父上の魂の奥底にも、きっと愛の記憶が残っているはずだ』
セリュナが立ち上がった。記憶は曖昧だったが、心の奥底で使命感が蘇っていた。古代龍としての誇りと、娘としての愛情が、彼女の魂を奮い立たせる。




