自由なる火の皿(前編)
火の供儀団——それが、俺たちが名乗ることになった名だった。
神が与えた火を、観測の条件を満たすために使う者たち。
神託ではなかったが、神の目が“必要としている行為”を選び取り、俺たちはそれに従った。
旅は、焦土から抜けた南の街で始まった。
その街の名は、メイラ。
「塩と鉄と贖罪の都市」と呼ばれた場所。
そこでは、料理は“武器”だった。
市中の料理人たちは全て、領主家に仕えるか、都市連合によって監視されていた。
個人が火を使って自由に調理を行うことは許されておらず、「焚き火の営業」は違法だった。
だが、俺たちは店を出した。
名もなき屋台。場所は市場の裏路地、湿った石畳と錆びた壁の隙間だった。
火を起こしたとき、周囲の空気がぴくりと凍った。誰も声をあげなかったが、視線が刺さるように集まった。
それでも、焼いた。
焼けた小石の上に干し魚を置き、じわりと油がにじむ。火は静かに、だが確かに命を吹き返した。
粗塩と山菜を鍋に放り込むと、湯気が立ち上った。
それは懐かしい記憶のように、ゆっくりと路地に染み出していった。
最初に来たのは、片脚を引きずる老人だった。何も言わずに腰を下ろし、湯気を見つめた。
次に来たのは、泣きじゃくる子どもを抱いた女。子の手を握ったまま、ただ火を見ていた。
カレンが立ち、剣に手をかけながらも、火のそばを守っていた。
アリシアは震える指で帳面をめくり、値段を書こうとして途中で止めた。
「……値段なんて、つけられません」
ナリは、利かない左手を膝に乗せ、右手でゆっくりとスープを混ぜた。
炎に照らされた彼女の頬には、まだあの村の灰の痕が残っていた。
「……今日の塩加減、昨日より……やさしい味」
彼女がそう呟いたとき、誰かが息をのんだ。
「この“焦げ目”、昔、母が作ってくれた味に似てる……」
そこからだった。声にならない嗚咽が、火を囲む人々の間に生まれ始めたのは。
誰かが涙を流し、誰かが口を覆ってすすり泣いた。
火が、“食べる”を超えて何かを伝え始めた。
それは、味の記憶ではなかった。
——それは、生きていてよかったと、一度でも思えた日の、匂いだった。
その静けさのなかで、誰もが気づかないふりをしていた。
この国の規律も、法律も、統治も——飢えを恐れすぎたあまり、あたたかさすら奪い取るほど歪んでいたということに。
火は危険だから。
味は暴動を生むから。
感情は制御不能だから。
——そんな理由で、湯気までもが規制される世の中になった。
けれど、ナリはスープをかき混ぜながらぽつりとこぼした。
「……昨日のより、今日のほうが好き」
その声音が、まるで“誰かの手作り”に触れた少女のようで、俺はどきりとした。
カレンが、それを横目に見て、そっと息をついた。
火の側にいると、感情がかすかに漏れる。
彼女はあの日、守れなかった何かを、この皿の向こうに見ていた。
アリシアが筆を止め、目を閉じたまま言った。
「……今日の火、少し甘い香りがする……なんだろう……あの、教会の厨房で……」
その言葉の続きは出なかった。
皆が心のどこかに、それぞれ“あの時のあたたかさ”を思い出していた。
そして、それを思い出してしまった自分に、ほんの少し後ろめたさを覚えていた。
カレンが立ち、アリシアが帳面を手に価格を数え、ナリは手の利かないまま、料理の香りを呼ぶように湯気に顔を近づけた。
「今日の塩加減、昨日よりいい」
「この“焦げ目”、思い出す味がする」
誰かが涙を流し、誰かが口を覆ってすすり泣いた。
火が、“食べる”を超えて何かを伝え始めた。
——それが問題だった。
この都市を統べる領主は、“火による感情の伝播”を何よりも恐れていた。
兵の胃袋を統制し、配給で街を支配するには、「自由な料理」が最大の敵だったからだ。
火の皿に並ぶものは、革命の始まりだった。




