希望の種子(第4部 / 新たな脅威の予兆)
夕日が西の空に沈み始めた頃、第三都市には完全に平和が戻っていた。感情を取り戻した市民たちが街を歩き、家族との再会を喜び、愛を確かめ合っている。子供たちの笑い声が響き、恋人たちが手を繋いで歩いている。
慶一郎たち四人は、街の最高層ビルの屋上に立っていた。そこからは第一都市、第二都市、そして第三都市すべてを見渡すことができる。三つの都市すべてに、温かな生命の光が戻っていた。
「やったな」慶一郎が満足そうに呟いた。「ユートピア連邦の完全浄化作戦も、これで終わりだ」
「はい」エレオノーラが微笑んだ。「多くの人々が愛を取り戻しました」
「神様もお喜びです」マリエルが愛のペッパーミルを胸に抱いた。
「人間の愛の力を、改めて感じました」セリュナが感慨深く言った。
しかし、その平和な時間は長くは続かなかった。
まず最初に、街の片隅で小さな異変が起こった。公園の花々が突然しおれ始め、街路樹の葉が黄色く変色し始めたのだ。動物たちも不安そうに鳴き声を上げ、どこかへ逃げ去っていく。
「この現象は…」セリュナが眉をひそめた。「自然界に何かの異常が…」
次に、遠くの山々から微かに奇妙な風が吹いてきた。それは今まで感じたことのない、原始的で野性的な風だった。空気中に混じる匂いは、山火事のような焦げた匂いと、深い森の湿った土の匂いが入り混じっている。
「この風は…」セリュナの表情が一変した。「まさか…もうヴォラックスが…」
風はさらに強くなり、遠くの山々から不気味な咆哮が聞こえてきた。それは龍の咆哮だったが、セリュナの美しい声とは正反対の、野蛮で怒りに満ちた叫び声だった。
「来るな…」セリュナが青ざめた。「ヴォラックスが目覚めています」
その時、街の各所で奇妙な現象が起こり始めた。文明の象徴である建物の一部が、まるで植物に侵食されるように、蔦や苔に覆われ始めたのだ。電灯は消え、機械は停止し、街全体が原始時代に戻ろうとしているかのようだった。
「これは…反文明の力か」慶一郎が驚いた。
遠くの空に、巨大な影が現れた。それは山のように巨大な古代龍の姿だった。しかし、セリュナの美しい銀色の鱗とは対照的に、その龍は暗緑色の鱗を持ち、全身から原始の野性を放っていた。
『我が名はヴォラックス…原始王なり』
その声は、大地を震わせるほど強大で、街の人々を恐怖に陥れた。
『文明という病、愛という欺瞞…すべてを原始の炎で焼き尽くしてくれる』
ヴォラックスの口から、青い炎が噴き出された。しかし、それは慶一郎の調和の炎とは真逆の力を持つ、破壊の炎だった。炎が触れた建物は、文明の痕跡を消去され、原始の自然に戻されていく。
「街の人たちが…」エレオノーラが心配そうに言った。
確かに、街の人々は恐怖に震えながらも、それでも必死に愛する人を守ろうとしていた。母親が子供を抱きしめ、夫婦が手を取り合い、友人同士が励まし合っている。感情を取り戻したばかりの彼らが、再び愛する人を失うまいと必死に支え合っていた。
「見てください」マリエルが涙ながらに言った。「皆さん、恐怖の中でも愛を手放そうとしません」
「これが人間の強さなのですね」エレオノーラも感動していた。
「俺たちで止めなければ」慶一郎が調和の炎を燃やした。
しかし、その炎はヴォラックスの反文明の力に押されて、普段の半分ほどの大きさしかない。
「慶一郎様の炎が…」マリエルが驚いた。
「ヴォラックスの力は、文明そのものを否定します」セリュナが説明した。「料理も、建物も、芸術も、愛さえも…すべてを原始に戻そうとするのです」
その時、ヴォラックスの巨大な目が、四人を捉えた。
『セリュナよ…愚かな龍め。人間如きに心を奪われ、古き誇りを捨てたか』
セリュナが毅然として答えた。「ヴォラックス!人間の愛は、私たちが失った大切なものを教えてくれました。あなたも、その美しさを知るべきです」
『愛など…弱者の妄想に過ぎぬ。真の力は原始の野性にある』
ヴォラックスは再び炎を吐いた。今度はより強力で、街の一区画が完全に原始の森に変えられてしまった。
「このままじゃ、街の人たちが危険だ」慶一郎が歯ぎしりした。
その時、エレオノーラが決意の表情を見せた。「慶一郎様、私たちも本気を出しましょう」
マリエルも頷いた。「アガペリア様からいただいた力、全部使います」
セリュナも古代龍の真の力を解放する構えを見せた。「私も、愛のために戦います」
四人は手を繋いだ。すると、ヴォラックスの反文明の力に負けていた調和の炎が、再び大きく燃え上がった。
『ほう…四人の力を合わせたか。だが、所詮は文明の力。原始の前には無力よ』
ヴォラックスがさらに強力な攻撃を仕掛けようとした時、突然空から美しい声が響いた。
「ヴォラックス」
それは愛の女神アガペリアの声だった。女神が再び天から降臨し、ヴォラックスの前に立ちはだかった。
『女神風情が…我に説教するつもりか』
「いえ」アガペリア女神は悲しげに微笑んだ。「あなたに伝えたいことがあるのです。あなたが失ったものの価値を」
『我は何も失ってはおらぬ』
「本当に?」女神の声は優しかった。「では、なぜそれほど怒っているのですか?」
ヴォラックスの動きが、一瞬止まった。
女神は続けた。「あなたもかつて、愛する者を失ったのでしょう。文明の発達によって…」
『…黙れ』
ヴォラックスの声に、わずかに動揺が混じった。
「話しましょう、ヴォラックス。あなたの痛みを、彼らに聞かせてあげてください」
女神の慈愛の力で、ヴォラックスの心の奥底に封印された記憶が蘇り始めた。
それは遥か昔、彼がまだ若い龍だった頃の記憶。愛する龍族の家族、美しい自然、そして人間が文明を発達させることで失われた故郷の記憶だった。
『我が愛した森…我が家族…すべて文明の炎で焼かれた…』
ヴォラックスの声に、初めて悲しみが混じった。
慶一郎が前に出た。「ヴォラックス…あんたの痛みは分かる。でも、文明すべてが悪いわけじゃない。愛を伝える手段として、文明を使うこともできるんだ」
ヴォラックスは最初、怒りを爆発させた。『戯言を…文明こそが我が愛した森を、我が家族を奪ったのだ!』
巨大な口から、さらに強力な青い炎が噴き出された。その炎で街の一角が原始の森に変えられていく。
「やはり、話し合いは無理なのか…」慶一郎が歯ぎしりした。
しかし、その時、慶一郎の料理の香りがヴォラックスに届いた。調和の炎から生まれたその香りには、家族への愛、故郷への愛、そして失ったものへの慈しみが込められていた。
ヴォラックスは何度も頭を振り、激しく抵抗した。心の奥に閉ざした記憶を認めることは、自分の弱さを認めることだったからだ。
『この香りは…やめろ…思い出したくない…』
ヴォラックスの巨大な体が震えた。封印していた記憶が、香りとともに蘇ろうとしているのを必死に押し留めようとしていた。
しかし、街の人々が一斉に歌い始めた時、ついに彼の抵抗が崩れ始めた。感情を取り戻した彼らが、愛する人への想いを込めて歌う子守歌、愛の歌、希望の歌だった。
その歌声が空に響いた時、ヴォラックスは長い沈黙の後、ついに自身の心の奥底にある痛みを語り始めた。
『我が愛した森…清らかな川…美しい空…そして、我が愛する龍族の家族たち…』
彼の声に、初めて悲しみが混じった。
『すべて人間の文明の炎で焼かれた…拡大する都市、汚染される自然、失われる生命…我は何も守ることができなかった…』
ヴォラックスの巨大な体が震え、その瞳に涙が浮かんだ。
『美しい…これが人間の愛の歌か…我が失った家族も、このような歌を歌っていた…』
アガペリア女神が微笑んだ。「愛は、失ったものを蘇らせることはできません。しかし、新しい愛を生み出すことはできます」
ヴォラックスは静かに頷いた。そして、巨大な体を小さく変化させ、人間の姿になって地上に降り立った。彼は威厳ある中年男性の姿で、深い緑色の髪を持っていた。
「許してくれ…我は怒りに目が眩んでいた」ヴォラックスは深く頭を下げた。
慶一郎が手を差し伸べた。「一緒に新しい世界を作ろうじゃないか。自然と文明が調和する世界を」
ヴォラックスはその手を取った。「ああ…頼む」
夜空に星が輝き始めた。第4部ユートピア編は終わり、新たな第5部への希望の種子が蒔かれた夜だった。
四人の愛は、ついに古代の怒りをも癒し、世界に新たな調和をもたらしたのだった。




