灰の記憶、継がれゆく火
火の嵐が過ぎたあと、村はただ静かだった。灰の中には、燃え残った祈祷書の破片、溶けかけた杭、そして——生きている“何か”があった。
ナリは、焼け落ちた集会場の奥で倒れていた。片腕は包帯に巻かれていたが、すでに感覚は戻っていない。
俺たちが駆け寄ると、彼女は薄く目を開けた。
「……姉ちゃんは……」
その問いに、誰も言葉を返せなかった。
サフィの姿は、炎に包まれた最後の瞬間から見つかっていない。
だが、燃え残った供物の壺の奥——
誰のものとも知れない手記の切れ端には、こう記されていた。
《あの火は贖罪ではない。“観測者”は選び、火の先に新たな使命を授ける。》
まるで誰かが“連れていかれた”かのような記述だった。
もしかしたらサフィは、神の目に見出され、火の中で消えたのではなく——
“選ばれて”、どこか別の次元へと運ばれていったのかもしれない。
火に焼かれた存在が、火によって別の生に転じるなら——
あの瞬間のサフィは、ただの犠牲ではなく、何かの“始まり”だったのかもしれなかった。
カレンは唇を噛みながら、火を避けるように背を向けた。
アリシアはナリの包帯を見て、震える指でその端をそっと結んだ。
「ナリ……あなたは、助けたのよ」
その言葉に、ナリはうつむいたまま、ぽつりと漏らすように言った。
「……私たち、最初は“保護”されてたの。山の上で、塀の中で。ちゃんと食べさせてもらって、夜は暖かくて……でもね……」
話しながら、ナリの声は次第に掠れていく。
「“善意の人たち”は、火を悪いものにした。火を怖がらせるようにして、私たちに与えないで、代わりに“ありがたい寒さ”を押しつけてきた……」
俺は、焼け落ちた祭壇の瓦礫の中から何かを拾い上げた。
それは、半分焦げた“供物の壺”だった。中には乾燥した豆と、割れた陶器に書かれた文字。
《供物を食う者に神罰を。火を用いるは万死に値する。》
その文を見て、アリシアは震えた声で言った。
「……これって、宗教じゃない。虐待だよ……」
空に、もう神の目はなかった。ただ、どこかで観測している気配だけが、微かに残っていた。
その時、俺の前に小さな光球が現れた。
“神の手”とでも呼ぶべきそれは、まるでゆらめく火種のように俺の周囲を回り、そして音を発した。
《挑戦クリア確認。観測対象にギフトを供与。精神損耗値……許容範囲超過、補償中》
空からひとつ、銀色の匙が降ってきた。
それは見た目にはただの調理道具だったが、握った瞬間に、俺の頭の中に数十種の調理工程が流れ込んできた。
記憶、感覚、そして——心に浮かぶ“あの目玉焼き”。
俺は黙って、村の中央に残った灰の山へ向かった。
そこに、ひとつだけ石を積み、料理を供えることにした。
「……これが、俺たちの“弔い”だ」
小さな鍋で、野菜を煮込み、干し肉を炙る。
焦げる香りと、塩の風味。
ナリが、包帯の利かない手で匂いを嗅ぎ、ぽつりと呟いた。
「……あの時、サフィ姉ちゃんが焼いてくれた、最後の肉の匂いと似てる」
彼女はその場で膝をつき、涙を止められなかった。
「……もう、ずっと我慢してた……寒くて、寂しくて、ずっと、誰も、あったかくしてくれなかった……!」
そして、俺に向かって叫んだ。
「ねえ、お願い……! 私にも、火を分けて……あなたのそばにいさせて……!」
それは、恋の告白ではなかったかもしれない。
けれどその声は、焔のように熱くて、真っ直ぐで、涙のにじむ風の中で、一番よく響いた。
カレンが、何も言わずに拳を握りしめていた。その手は小さく震えていて、目元に何かを堪えるような影が落ちていた。
アリシアは、少し距離を取ってこちらを見ていた。口を開きかけて、けれど何も言わず、そっと目を伏せる。
皆、ナリの叫びに何かを感じていた。
けれど、それぞれが火の前で思い出す“あたたかさ”に、どこか後ろめたさを抱いていた。
あの夜、誰ひとり笑っていなかった。
けれど、誰も泣ききれなかった。
それでも、火は静かに揺れていた。
俺たちの罪も、祈りも、言葉にならなかった感情も、すべてを呑み込んで。
燃え残るその鍋の香りは、まるで誰かの心臓がまだ微かに鼓動を打っているかのように、やさしく村を包んでいた。




