表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

127/182

慈善の崩壊(第2部 / 記憶という名の温かい何か)

広場に流れる風が、少し涼しくなってきた。午前の陽射しが雲に遮られ、柔らかな陰影が石畳に落ちている。コルネリウスの表情には、慶一郎の問いかけによって新たな葛藤が生まれていた。

「エリスは…」コルネリウスは震え声で呟いた。「エリスは最後まで、私に笑顔でいてほしいと言っていました」

記憶の中で、病床の娘が小さな手を伸ばして、父親の頬に触れる光景が蘇る。「お父さん、悲しい顔しないで。私はお父さんの笑顔が一番好きなの」と言った、あの愛らしい声。

「彼女は私に、『お父さんが悲しんだら、私も天国で悲しくなっちゃう』と言いました」コルネリウスの目から、再び涙がこぼれ落ちた。「私は…私は娘の願いを裏切っていたのですね」

慶一郎は静かに頷いた。「エリスちゃんは、あなたが感情を失うことではなく、愛を持ち続けることを望んでいたのでしょう」

その時、マリエルが前に出た。彼女の手には、愛のペッパーミルが握られている。その神聖な香辛料から立ち上る香りは、記憶と魂に直接語りかける力を持っていた。

「コルネリウスさん」マリエルの声は慈愛に満ちていた。「私の神器で、あなたの心の奥にある本当の記憶を呼び覚ましましょう」

愛のペッパーミルから、金色の粉末がゆっくりと舞い上がった。それは空気中で光の粒子となって踊り、コルネリウスの周りを包み込んでいく。香りは甘く、そして深く、失われた愛の記憶を呼び覚ます力を持っていた。

コルネリウスが香りを吸い込んだ瞬間、彼の心の奥に眠っていた記憶が鮮明に蘇った。

それは、エリスが五歳の時の記憶だった。彼女が初めて一人でオムレツを作ろうとして、卵を床に落としてしまった日のこと。台所は卵でぐちゃぐちゃになり、エリスは泣きそうな顔をしていた。

「お父さん、ごめんなさい…」小さなエリスが涙声で謝った。

でも、その時のコルネリウスは怒らなかった。代わりに、娘を優しく抱きしめて言った。「大丈夫だよ、エリス。失敗は学びの始まりだ。一緒に作り直そう」

そして二人で、手を取り合いながら新しいオムレツを作った。エリスの小さな手が、父親の大きな手に導かれながら、卵を混ぜている光景。その時の娘の嬉しそうな笑顔。

「お父さん、今度は上手にできた!」エリスが跳び上がって喜んだ時の声。

「そうだね、エリス。君はとても上手だよ」父親として、娘の成長を心から喜んだ時の気持ち。

次に蘇ったのは、エリスが六歳の時の記憶。彼女が病気で寝込んでいた時、コルネリウスが枕元で本を読み聞かせていた夜のこと。

「お父さん、もう一話読んで」エリスがおねだりした。

「もう遅いから、今日はここまで」コルネリウスが言うと、エリスは少し寂しそうな顔をした。

「でも、お父さんの声を聞いていると、病気が治りそうな気がするの」

その言葉に、コルネリウスの心は温かくなった。「それなら、もう少しだけ読もうか」

そして夜遅くまで、父親は娘のために物語を読み続けた。エリスが安らかな寝息を立てるまで、ずっとそばにいた。

さらに蘇る記憶。エリスが七歳の誕生日を楽しみにしていた時のこと。

「お父さん、七歳になったら、私も料理を教えて」エリスが目を輝かせて言った。

「もちろんだよ。君ならきっと、素晴らしい料理人になれる」コルネリウスが答えると、エリスは嬉しそうに笑った。

「私、お父さんみたいになりたいの。みんなを笑顔にする料理を作れるようになりたい」

その時の娘の純粋な願い。父親への憧れ。未来への希望。

でも、その誕生日は来なかった。エリスは七歳になる前日に、父親の腕の中で静かに息を引き取った。

「お父さん…私、幸せだった」エリスの最後の言葉が、記憶の中で鮮明に響いた。「お父さんがいてくれて、本当に幸せだった。だから、悲しまないで」

マリエルの神器による記憶の香りが、さらに深い層の記憶を呼び覚ました。それは、エリスが亡くなった直後、まだ感情除去手術を受ける前のコルネリウスの記憶だった。

葬儀の日、コルネリウスは娘の棺の前で誓った。「エリス、お父さんは君のことを一生忘れない。君が教えてくれた愛を、他の人にも伝えていく」

その時の彼は、娘の死を乗り越えて、より多くの人を幸せにしようと決意していた。感情を捨てるのではなく、愛を広げることを選択しようとしていた。

でも、妻マリアの死によって、その決意は崩れた。二度目の失意の中で、彼は愛することの痛みに耐えられなくなり、感情除去の道を選んだのだった。

「私は…間違っていました」コルネリウスは涙を流しながら言った。「感情を捨てることで、人々を幸せにできると思っていました。でも…それは違った」

慶一郎は静かに頷いた。「エリスちゃんは、あんたの愛を誇りに思ってたんだ。そして、その愛を他の人にも分けて欲しいって願ってたんだよ」

コルネリウスは立ち上がり、広場にいる人々を見回した。感情抑制装置から解放された市民たちは、戸惑いながらも、少しずつ本来の表情を取り戻し始めている。

「私は…彼らから、エリスが大切にしていた感情を奪っていました」コルネリウスの声は深い悔恨に満ちていた。「私の慈善政策…それは偽善だったのです。本当の愛を忘れて、完璧な社会という幻想を追いかけていました」

そんな彼に、慶一郎は最後の料理を差し出した。それは『父の愛』と名付けられた、特別なスープだった。

「これは、エリスちゃんへの想いを込めて作ったんだ」慶一郎は静かに言った。「受け取ってくれよ」

コルネリウスは震える手でスープを受け取り、一口飲んだ。その瞬間、彼の心に温かな光が戻ってきた。それは七年間失っていた、父親としての愛情だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ