慈善の崩壊(第2部 / 記憶という名の温かい何か)
広場に流れる風が、少し涼しくなってきた。午前の陽射しが雲に遮られ、柔らかな陰影が石畳に落ちている。コルネリウスの表情には、慶一郎の問いかけによって新たな葛藤が生まれていた。
「エリスは…」コルネリウスは震え声で呟いた。「エリスは最後まで、私に笑顔でいてほしいと言っていました」
記憶の中で、病床の娘が小さな手を伸ばして、父親の頬に触れる光景が蘇る。「お父さん、悲しい顔しないで。私はお父さんの笑顔が一番好きなの」と言った、あの愛らしい声。
「彼女は私に、『お父さんが悲しんだら、私も天国で悲しくなっちゃう』と言いました」コルネリウスの目から、再び涙がこぼれ落ちた。「私は…私は娘の願いを裏切っていたのですね」
慶一郎は静かに頷いた。「エリスちゃんは、あなたが感情を失うことではなく、愛を持ち続けることを望んでいたのでしょう」
その時、マリエルが前に出た。彼女の手には、愛のペッパーミルが握られている。その神聖な香辛料から立ち上る香りは、記憶と魂に直接語りかける力を持っていた。
「コルネリウスさん」マリエルの声は慈愛に満ちていた。「私の神器で、あなたの心の奥にある本当の記憶を呼び覚ましましょう」
愛のペッパーミルから、金色の粉末がゆっくりと舞い上がった。それは空気中で光の粒子となって踊り、コルネリウスの周りを包み込んでいく。香りは甘く、そして深く、失われた愛の記憶を呼び覚ます力を持っていた。
コルネリウスが香りを吸い込んだ瞬間、彼の心の奥に眠っていた記憶が鮮明に蘇った。
それは、エリスが五歳の時の記憶だった。彼女が初めて一人でオムレツを作ろうとして、卵を床に落としてしまった日のこと。台所は卵でぐちゃぐちゃになり、エリスは泣きそうな顔をしていた。
「お父さん、ごめんなさい…」小さなエリスが涙声で謝った。
でも、その時のコルネリウスは怒らなかった。代わりに、娘を優しく抱きしめて言った。「大丈夫だよ、エリス。失敗は学びの始まりだ。一緒に作り直そう」
そして二人で、手を取り合いながら新しいオムレツを作った。エリスの小さな手が、父親の大きな手に導かれながら、卵を混ぜている光景。その時の娘の嬉しそうな笑顔。
「お父さん、今度は上手にできた!」エリスが跳び上がって喜んだ時の声。
「そうだね、エリス。君はとても上手だよ」父親として、娘の成長を心から喜んだ時の気持ち。
次に蘇ったのは、エリスが六歳の時の記憶。彼女が病気で寝込んでいた時、コルネリウスが枕元で本を読み聞かせていた夜のこと。
「お父さん、もう一話読んで」エリスがおねだりした。
「もう遅いから、今日はここまで」コルネリウスが言うと、エリスは少し寂しそうな顔をした。
「でも、お父さんの声を聞いていると、病気が治りそうな気がするの」
その言葉に、コルネリウスの心は温かくなった。「それなら、もう少しだけ読もうか」
そして夜遅くまで、父親は娘のために物語を読み続けた。エリスが安らかな寝息を立てるまで、ずっとそばにいた。
さらに蘇る記憶。エリスが七歳の誕生日を楽しみにしていた時のこと。
「お父さん、七歳になったら、私も料理を教えて」エリスが目を輝かせて言った。
「もちろんだよ。君ならきっと、素晴らしい料理人になれる」コルネリウスが答えると、エリスは嬉しそうに笑った。
「私、お父さんみたいになりたいの。みんなを笑顔にする料理を作れるようになりたい」
その時の娘の純粋な願い。父親への憧れ。未来への希望。
でも、その誕生日は来なかった。エリスは七歳になる前日に、父親の腕の中で静かに息を引き取った。
「お父さん…私、幸せだった」エリスの最後の言葉が、記憶の中で鮮明に響いた。「お父さんがいてくれて、本当に幸せだった。だから、悲しまないで」
マリエルの神器による記憶の香りが、さらに深い層の記憶を呼び覚ました。それは、エリスが亡くなった直後、まだ感情除去手術を受ける前のコルネリウスの記憶だった。
葬儀の日、コルネリウスは娘の棺の前で誓った。「エリス、お父さんは君のことを一生忘れない。君が教えてくれた愛を、他の人にも伝えていく」
その時の彼は、娘の死を乗り越えて、より多くの人を幸せにしようと決意していた。感情を捨てるのではなく、愛を広げることを選択しようとしていた。
でも、妻マリアの死によって、その決意は崩れた。二度目の失意の中で、彼は愛することの痛みに耐えられなくなり、感情除去の道を選んだのだった。
「私は…間違っていました」コルネリウスは涙を流しながら言った。「感情を捨てることで、人々を幸せにできると思っていました。でも…それは違った」
慶一郎は静かに頷いた。「エリスちゃんは、あんたの愛を誇りに思ってたんだ。そして、その愛を他の人にも分けて欲しいって願ってたんだよ」
コルネリウスは立ち上がり、広場にいる人々を見回した。感情抑制装置から解放された市民たちは、戸惑いながらも、少しずつ本来の表情を取り戻し始めている。
「私は…彼らから、エリスが大切にしていた感情を奪っていました」コルネリウスの声は深い悔恨に満ちていた。「私の慈善政策…それは偽善だったのです。本当の愛を忘れて、完璧な社会という幻想を追いかけていました」
そんな彼に、慶一郎は最後の料理を差し出した。それは『父の愛』と名付けられた、特別なスープだった。
「これは、エリスちゃんへの想いを込めて作ったんだ」慶一郎は静かに言った。「受け取ってくれよ」
コルネリウスは震える手でスープを受け取り、一口飲んだ。その瞬間、彼の心に温かな光が戻ってきた。それは七年間失っていた、父親としての愛情だった。




