慈善の崩壊(第1部 / 過去の傷痕)
第一都市の中央広場に、暖かな陽光が降り注いでいた。感情抑制装置が破壊された今、人々の表情には久しぶりに自然な色彩が戻り始めている。広場の大理石の床には、朝露がまだわずかに残り、歩く度にしっとりとした感触が足の裏に伝わってくる。空気中には、解放感と同時に、長年の抑圧から解き放たれた魂の震えのような、微細な振動が漂っていた。
慶一郎は、広場の中央に設置された臨時の料理台で、最後の仕上げとなる特別な料理を準備していた。調和の炎が静かに踊り、その虹色の光が周囲の空気を温かく包んでいる。炎の周りには、魂素の粒子が光の糸のように舞い踊り、見る者の心に深い安らぎをもたらしていた。
「コルネリウスさん」慶一郎は、広場の端に佇む第一都市の元管理者に声をかけた。「ちょっと話そうじゃないか」
コルネリウスの表情には、昨夜の出来事以来、複雑な感情が交錯していた。娘エリスの記憶を取り戻した彼の瞳には、七年間封印されていた父親としての愛情と、同時に深い悔恨の念が宿っている。彼の頬には、朝の光が当たって、わずかに湿り気を帯びているのが見て取れた。
「篠原さん…」コルネリウスの声は、昨日までの冷静で機械的な調子とは全く異なっていた。感情の波が押し寄せる度に、声が震えている。「私は…何をしてしまったんだ…エリス…」
慶一郎は料理台から離れ、ゆっくりとコルネリウスに歩み寄った。広場の石畳に響く足音は、静寂の中でひときわ鮮明に聞こえる。風は優しく、二人の間を通り抜けながら、どこからか運ばれてきた花の香りをほのかに漂わせていた。
「まず、これを食ってみな」慶一郎は、小さな皿に盛られた温かな料理を差し出した。それは『記憶の温もり』と名付けられた、特別な卵料理だった。ふんわりとした卵の表面には、調和の炎で作り出された微細な魂素の結晶が、星屑のように散りばめられている。
料理からは、優しい湯気が立ち上り、その中に混じる香りは、懐かしい家庭の温もりを思い起こさせるものだった。卵の黄身は、朝日のような鮮やかな金色で、その周りを白身が雲のように柔らかく包んでいる。
コルネリウスは震える手で皿を受け取り、一口食べた瞬間、彼の表情が大きく変わった。目を見開き、そして深く息を吸い込む。
「これは…エリスが好きだった…」彼の声は途切れ途切れになった。「朝食の…オムレツ…」
記憶の中で、七歳の娘エリスが嬉しそうに笑いながら、同じような卵料理を頬張っている光景が蘇る。彼女の小さな手が、フォークを器用に使って卵を切り分ける様子。「お父さん、今日のオムレツはいつもより美味しいよ」と言った、あの愛らしい声。
コルネリウスの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは七年間、感情抑制によって流すことのできなかった、父親としての涙だった。
「私は…私は娘を愛していたのに…」彼は震え声で呟いた。「なぜ、なぜ感情を捨てたんだ…」
慶一郎は静かに彼の隣に座り、優しく肩に手を置いた。「話してくれよ」慶一郎は静かに彼の隣に座り、優しく肩に手を置いた。「エリスちゃんのこと、そして…なんであんたが感情を手放しちまったのか」
コルネリウスは空を見上げた。青空には白い雲がゆっくりと流れ、その向こうに鳥たちが自由に舞っている。風は頬を撫でて、髪を軽やかに揺らしていく。その自然の営みの中で、彼は長い間封印していた記憶を辿り始めた。
「エリスは…病弱な子でした」コルネリウスの声は、記憶の重みで沈んでいた。「生まれた時から体が弱く、頻繁に熱を出していました。妻のマリアと私は、必死に看病していました」
彼の脳裏に、小さなベッドで苦しそうに横たわる娘の姿が浮かんだ。エリスの小さな手を握りながら、体温を測り、薬を飲ませ、一晩中付き添った夜々のことを思い出す。
「それでも、エリスは明るい子でした。病気の時でさえ、『お父さん、心配しないで』と言って笑ってくれました」コルネリウスの声に、当時の愛情が蘇ってくる。「彼女の好物は、私が作る simple なオムレツでした。病気で食欲がない時でも、それだけは食べてくれました」
慶一郎は黙って聞いている。調和の炎が静かに燃え続け、その光がコルネリウスの表情を優しく照らしていた。
「ある日…七歳の誕生日の前日でした」コルネリウスの声が震え始めた。「エリスは突然高熱を出しました。いつもと違って、どんな薬も効きませんでした。私たちは最高の医師を呼び、あらゆる治療を試しました。でも…」
彼の言葉が途切れた。風が静かに吹き抜けて、周囲の木々の葉を優しく揺らしている。その音は、まるで慰めの子守歌のように聞こえた。
「でも、エリスは…私の腕の中で…」コルネリウスは両手で顔を覆った。「最後に彼女が言った言葉は、『お父さん、泣かないで。私、お父さんの作ったオムレツが大好きだったよ』でした」
その瞬間、広場にいる全ての人々が静寂に包まれた。コルネリウスの悲しみが、空気を通して伝わってくるようだった。マリエルが小さく手を合わせて祈り、エレオノーラが慈愛の表情で見守っている。
そして、セリュナの瞳にも深い同情の光が宿っていた。彼女は千年の孤独を知る古代龍として、失うことの痛みを誰よりも理解していた。
「娘を失った後…妻のマリアも心を病みました」コルネリウスは続けた。「彼女は毎日、エリスの部屋で泣き続けました。そして一年後…マリアも後を追うように…」
コルネリウスの声は完全に途切れた。彼は両手で涙を拭いながら、深く息を吸い込んだ。
「私は…私は全てを失いました。愛する娘も、妻も…」彼の声は痛みに満ちていた。「そして、その痛みに耐えられなくなった私は…感情除去手術を受けたのです」
慶一郎は静かに頷いた。そして、さらに深い質問を投げかけた。
「でも、なぜ他の人々にも同じことを強制したのですか?」
コルネリウスは長い間沈黙した。そして、ゆっくりと答えた。
「私は…思ったのです。感情があるから、人は苦しむのだと。愛するから、失う痛みがある。希望があるから、絶望がある。だから…だから皆が感情を手放せば、誰も苦しまなくて済むと…」
彼の論理は、一見すると合理的に聞こえた。しかし、その底には深い誤解があった。
「それは…善意だったのです」コルネリウスは自分自身に言い聞かせるように呟いた。「私は本当に、人々を苦痛から救おうとしていました。エリスやマリアのような悲しみを、誰にも味わってほしくなかった」
慶一郎は優しく頷いた。「その気持ちは分かるさ。でもよ…エリスちゃんは本当に、あんたに感情を捨てて欲しいって願ってたのかい?」
その問いかけに、コルネリウスは言葉を失った。




