記憶の味(第3部 / 記憶の料理、魂の覚醒)
「まず、隠れている人々の味覚を完全に回復させましょう」
マルクスが提案する。彼が持参した地下農園の食材から、芳醇な香りが立ち上っていた。
「ソフィア、どこか安全な場所はありますか?」
「廃墟になった旧市場があります」ソフィアが答える。「そこなら管理者の監視も届きません」
一行は慎重に旧市場へと向かった。かつては多くの人々で賑わっていたであろう市場は、今や瓦礫と化している。しかし、その廃墟の奥に、小さな地下室があった。
「ここなら大丈夫です」ソフィアが確認する。
地下室は狭く、湿った空気が漂っていたが、十数人が集まるには十分な広さがあった。慶一郎は調和の炎を燃やして室内を照らし、同時に空気を浄化していく。
「では、味覚回復の準備を始めましょう」
マルクスが詳細な手順を説明する。
「まず、最も基本的な甘味から始めます。砂糖水を通常の百分の一の濃度から開始し、段階的に十分の一、そして通常濃度まで上げていきます」
彼がトマトを取り出しながら続ける。
「甘味が回復したら、次は塩味、その後に酸味、苦味、最後に旨味の順序で進めます。各段階で、対応する食材を使用します。塩味にはチーズ、酸味にはレモン、苦味にはハーブ、旨味には発酵食品を」
マルクスの手には、段階的に濃度を調整した五つの小瓶が用意されていた。朝摘みしたばかりのトマトは、地下室の暗闇でも生命力に満ちた赤さを放っていた。
しかし、問題が発生した。
隠れていた人々の味覚麻痺は、中央施設で出会った人々よりもはるかに深刻だった。『再治療』の影響で、香りすら感じられない状態になっている。
「これは...」マルクスが困惑する。「通常の味覚回復法では、時間がかかりすぎます」
「明日には完全浄化作戦が始まってしまいます」ソフィアが焦る。「間に合いません」
その時、セリュナが前に出た。
「私に考えがあります」古代龍の知恵が込められた声が響く。「慶一郎、あなたの調和の炎と、マリエルの愛のペッパーミル、そして私の古代龍の力を融合させるのです」
「融合?」慶一郎が尋ねる。
「はい」セリュナが説明を始める。「調和の炎で食材の魂素を活性化し、愛のペッパーミルで記憶を呼び覚まし、そして私の古代龍の力で時空を超えた記憶にアクセスする」
エレオノーラが理解する。
「つまり、単なる味覚回復ではなく、その人の人生で最も大切だった食事の記憶に直接アクセスするということですね」
「その通りです」セリュナが頷く。「古代龍族は、時の流れを操る力を持っています。人の記憶の奥底に眠る、最も愛に満ちた食事の記憶を呼び起こすことができるのです」
セリュナの提案に、慶一郎は深い感動を覚えていた。
(セリュナは、いつも俺たちのために最善の方法を考えてくれる。なぜ彼女はこれほどまでに...)
慶一郎の想いが調和の炎を通じてセリュナに伝わると、古代龍の心が激しく動揺する。
(慶一郎が私を見つめている...この視線だけで、千年の孤独が癒されるような気がします)
「やってみよう」慶一郎が決意を込めて答える。
三人が手を重ねる。調和の炎、天使の光、愛の香辛料、そして古代龍の風──四つの力が融合し、地下室に奇跡的な現象を引き起こした。
最初に試したのは、ソフィアだった。
彼女の前に置かれたトマトが、四つの力によって神秘的な輝きを放ち始める。そして、セリュナの古代龍の力により、ソフィアの記憶の奥底から、大切な瞬間が蘇ってきた。
「これは...」ソフィアの瞳が見開かれる。
彼女の脳裏に、鮮明な記憶が蘇っていた。
十歳の誕生日、母親が作ってくれた特別なトマトサラダ。庭で採れたばかりのトマトに、少しの塩とオリーブオイル、そして母親の愛情がたっぷりと込められた、人生で最も美味しかった一皿。
「お母さんの...トマトサラダ」
ソフィアが震え声で呟くと同時に、目の前のトマトを口にした。
その瞬間、奇跡が起こった。
ソフィアの表情が、驚きと喜びに輝く。
「味がする!」彼女が叫ぶ。「ただの味じゃない、お母さんの愛の味がする!」
涙が頬を伝い落ちる中、ソフィアは続ける。
「甘さ、酸味、そして太陽の温かさ、大地の恵み、そして何より...お母さんが私を愛してくれていた気持ちが、口の中に広がっています」
地下室にいた他の人々も、次々と同じ体験をしていく。
一人の男性は、亡き妻が作ってくれたシチューの記憶と共に、ニンジンの甘さを取り戻した。
若い女性は、祖母と一緒に作ったクッキーの思い出と共に、小麦粉の香ばしさを感じ取った。
老人は、幼い頃に父親と釣った魚を料理した時の記憶と共に、魚の旨味を蘇らせた。
地下室が人々の喜びの声に満たされる中、セリュナは慶一郎を見つめていた。
(慶一郎の力と私の力が融合して、こんな奇跡を起こせるなんて...私たちの絆は、もしかすると運命なのかもしれません)
古代龍の心に、愛という感情がより深く根付いていく。しかし、同時に葛藤も生まれていた。
(でも、私は古代龍族。千年を生きる存在として、人間を守護するのが使命。一人の人間に特別な感情を抱くことは、その使命に背くことなのでしょうか)
セリュナは自分の立場と感情の間で揺れ動いていた。古代龍としての誇りと責任、そして一人の女性としての想い──どちらも大切で、どちらも捨てることができない。
(それでも...慶一郎と共にいるこの時間だけは、何者でもない一人の女性でいたいのです)




