記憶の味(第1部 / 朝霧に包まれた旅立ち)
夜明け前の薄闇の中、元ユートピア連邦の中央施設は静かな活気に満ちていた。
各都市への出発準備が着々と進んでいる。朝霧が建物を薄く包み、空気には秋の深まりを感じさせる冷たさが漂っていた。霧の粒子が肌に触れるたびに、新しい戦いへの緊張感が一行の心を引き締める。
「第一都市への先遣隊の準備が完了しました」
マルクスが慶一郎に報告する。彼の手には、地下農園で育てた新鮮な食材が詰まった保存箱が握られていた。朝露に濡れたレタス、完熟したトマト、芳醇な香りを放つハーブ──それらすべてが、人々の味覚回復への希望を運ぶ宝物だった。
「ありがとう、マルクス」慶一郎が調和の炎を静かに燃やす。「君たちの協力なしには、この作戦は成功しない」
炎の温かさが霧の冷たさを和らげ、周囲に安らぎをもたらしていた。魂素粒子が朝の空気中に舞い踊り、食材に込められた愛情をより一層輝かせている。
セリュナが霧の中から優雅に現れた。人間の姿の古代龍は、朝霧に包まれると一層神秘的な美しさを増している。銀色の髪が霧に濡れ、その雫が朝日の光を受けて宝石のように輝いていた。
「慶一郎」セリュナが近づく。その瞬間、慶一郎の心に温かな感覚が広がった。
古代龍の存在感は、いつも慶一郎を安心させてくれる。しかし、最近は安心感を超えた何かを感じるようになっていた。それが何なのか、慶一郎自身もまだ理解できずにいる。
「第一都市の状況が思ったより深刻なようです」セリュナが情報を伝える。「私の古代龍族としてのネットワークから得た情報では、感情を取り戻した市民の三分の一が、既に再収容されているとのことです」
「再収容?」エレオノーラが天使特有の透明感ある声で尋ねる。朝霧が彼女の純白の翼を幻想的に包み、まるで雲の中に舞う天使のように見えた。
「感情抑制装置による強制的な『再治療』です」セリュナの銀色の瞳に怒りの光が宿る。「彼らは人々の記憶と感情を、再び封印しようとしています」
マリエルが愛のペッパーミルを握りしめる。香辛料の芳香が霧と混じり合い、朝の空気に複雑で豊かな香りを生み出していた。
「アガペリア様からの緊急のお告げです」聖女の声が神聖に響く。「『時間は限られている。愛の種を蒔くのは今』と」
慶一郎は決意を固めた。調和の炎を力強く燃やし、霧を払いのけるように光を放つ。
「分かった。すぐに出発しよう」
セリュナが慶一郎の決意を感じ取り、心の奥底で喜びを覚える。
(慶一郎の強い意志を見ていると、私の心も燃え上がります。これが...愛する人への共感というものなのでしょうか)
古代龍は自分の感情の変化に戸惑いながらも、慶一郎と共に戦える喜びを噛み締めていた。
「私も参ります」セリュナが宣言する。「古代龍の力で、皆さんを第一都市まで運びましょう」
霧が次第に晴れ始める中、セリュナは龍の姿へと変身した。巨大な銀色の龍が朝日を受けて輝く様は、まさに神話の世界そのものだった。朝露が鱗から滑り落ち、大地に小さな虹を作っている。
慶一郎、エレオノーラ、マリエル、そしてマルクス率いる『真の味覚を守る会』の精鋭メンバーが、セリュナの背中に乗り込んだ。
「では、参りましょう」
セリュナの巨大な翼が力強く羽ばたくと、一行は朝霧の彼方へと飛び立った。眼下には、まだ霧に包まれた大地が広がっている。しかし、東の空には既に太陽が昇り始めており、新しい一日への希望を告げていた。




