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失われた味覚(第2部 / 記憶に刻まれた最初の一口)

マルクスの説明によれば、段階的味覚回復法は三つの段階に分かれているという。

「第一段階は『香りによる記憶の覚醒』です」

マルクスが手にしたのは、小さなガラス瓶だった。その中に入っているのは、薄い茶色の液体。蓋を開けると、何とも言えない複雑で豊かな香りが立ち上る。

「これは?」慶一郎が尋ねる。

「様々な食材のエッセンスを抽出し、調合したものです」エルザが説明する。「完璧栄養食を摂取していた間も、嗅覚は完全には封印されていませんでした。香りから記憶を呼び覚まし、味覚への道筋を作るのです」

マリエルが愛のペッパーミルに手を触れる。

「なるほど...香りは記憶と直結していますからね」

マルクスがガラス瓶を味覚麻痺の人々に回していく。一人ひとりが瓶に鼻を近づけ、深く香りを吸い込んでいく。

最初は何の反応もなかった人々だったが、やがて変化が現れ始めた。

「この香り...」マーガレットの瞳に涙が浮かぶ。「母のシチューの香りに似ています」

「私は...祖母の手作りパンを思い出しました」

「子供の頃に食べたりんごの香りが蘇ってきます」

人々の表情が徐々に明るくなっていく。香りが記憶の扉を開き、失われた味覚への道筋を作り始めているのだ。

セリュナがその様子を見守りながら、慶一郎に近づく。

「素晴らしい理論ですね」古代龍の声に、微かな興奮が込められていた。「人間の感覚と記憶の結びつきを利用した、非常に合理的な...いえ、愛に満ちた方法です」

慶一郎が頷く。

「マルクスたちは、ずっとこの方法で人々を救ってきたんだな」

「ええ」セリュナの視線が慶一郎に向けられる。「あなたのように、人々を救うことに人生を捧げた方たちなのでしょう」

慶一郎への敬意と、それを超えた何かがセリュナの声に込められていた。しかし、慶一郎はそれに気づかず、香りの効果に夢中になっている人々を見つめている。

「第二段階は『基本味覚の段階的回復』です」

マルクスが続ける。彼の手には、五つの小さな器が載せられたトレイがあった。

「甘味、塩味、酸味、苦味、旨味──五つの基本味覚を、極めて薄い濃度から始めて、徐々に正常なレベルまで回復させます」

最初の器には、ほんのり甘い水が入っていた。砂糖を薄めたものだが、濃度は通常の百分の一程度だという。

「最初は、ほとんど水と変わりません」エルザが説明する。「しかし、封印された味覚には、この程度の刺激から始めることが重要なのです」

人々が恐る恐る、薄い甘味の水を口にしていく。

「あ...」マーガレットが小さく声を上げた。「何かを感じます。ほんの僅かですが、甘さが...」

しかし、同時に彼女の表情に混乱が浮かぶ。

「でも、怖いんです」マーガレットが震え声で続ける。「これまで何も感じなかったのに、急に感覚が戻ってくるなんて...私は本当に正常なのでしょうか」

他の人々も似たような反応を示していた。喜びと同時に、深い不安と恐怖を抱えている。長期間感情を封印されていた反動で、感覚の復活に対して恐怖を感じているのだ。

「大丈夫です」エルザが優しく声をかける。「私たちも同じ経験をしました。感覚が戻る時は、喜びと恐怖が同時にやってくるものです」

「本当ですか?」

「はい!確かに甘いです!」

マーガレットが涙を流しながら言う。それは喜びの涙でもあり、混乱と恐怖の涙でもあった。

「でも、この感情に名前をつけることができません。嬉しいのか、悲しいのか、分からないんです」

マーガレットの喜びの声に、他の人々も希望を見出していく。失われたと思っていた味覚が、少しずつでも戻ってくる可能性があるのだ。

慶一郎は調和の炎を燃やして、人々の味覚回復を支援しようとした。しかし、マルクスが静かに制止する。

「お気持ちは有り難いのですが、この回復過程は自然でなければなりません」マルクスが説明する。「外部からの魂素操作は、かえって回復を阻害する可能性があります」

「そうなのか...」慶一郎が少し落胆する。

その時、セリュナが慶一郎の肩に手を置いた。古代龍の温かな手のひらが、慶一郎の心を慰める。

「あなたの存在そのものが、人々の希望になっています」セリュナの声が優しく響く。「直接的な力でなくても、愛による支援は必ず人々に届きます」

慶一郎がセリュナを見上げる。銀髪の美女の瞳には、深い理解と──そして彼女自身も気づいていない愛情が宿っていた。

「セリュナ...ありがとう」

その言葉に、セリュナの心が激しく動揺する。

(慶一郎の『ありがとう』が、どうしてこれほど心に響くのでしょう)

古代龍は自分の感情を理解しようとするが、答えは見つからない。ただ、慶一郎と共にいることで感じる充足感だけは確かだった。

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