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善意の暴力(第1部 / 過去の傷痕、愛の記憶)

夜が更けた元ユートピア連邦の中央施設は、穏やかな変化の時を迎えていた。

かつて無機質だった食堂には、今や温かな灯りが灯されている。慶一郎が即席で作った料理教室が開かれ、人々が久しぶりに包丁を握る姿があった。野菜を切る音、出汁の香り、そして何より──人々の笑い声が響いている。

「お母さんのカレーって、こんな香りだったかしら」

マーガレットが玉ねぎを炒めながら、懐かしそうに呟く。その瞳には、失われていた記憶の温かさが宿っていた。

「ええ、私も思い出しました」隣でジャガイモの皮を剥いている女性が答える。「子供の頃、母と一緒に台所に立った時の幸せな気持ちを」

慶一郎は調和の炎を穏やかに燃やしながら、人々の料理を見守っていた。炎の中で踊る魂素粒子が、食材に込められた記憶を優しく引き出していく。トマトには太陽の温かさが、人参には大地の恵みが、そして玉ねぎには農夫の汗と愛情が宿っているのが見える。

「美しいですね」

エレオノーラが慶一郎の隣に立ち、天使特有の透明感ある声で呟いた。夜風が窓から流れ込み、彼女の純白の髪を優雅になびかせている。

「皆さんの表情が、本当に生き生きとしています。これが人間本来の姿なのですね」

マリエルも愛のペッパーミルを手に、料理教室を見回していた。空気中に漂う香辛料の芳香が、人々の心に愛の記憶を呼び起こしている。

「アガペリア様も、きっとお喜びでしょう」聖女の微笑みが、月光に照らされて神々しく輝く。「人々が再び、食事に愛を込める喜びを取り戻されました」

しかし、食堂の片隅で、一人だけ沈んだ表情を浮かべている男性がいた。

リベリウスだった。

彼は小さなテーブルに一人で座り、慶一郎が作ったシンプルなスープを前にして、じっと手を見つめていた。その瞳には、深い後悔と混乱が渦巻いている。

「リベリウス殿」

セリュナが優雅に彼に近づいた。人間の姿の古代龍は、銀色の髪に夜風を受けながら、慈悲深い表情でリベリウスを見つめている。

「お一人で何をお考えですか?」

リベリウスが顔を上げる。その表情は、昼間の冷酷な支配者とは別人のように疲れ果てていた。

「私は...私は何をしてしまったのでしょうか」

彼の声は震えていた。

「息子のことを思い出すたびに、胸が苦しくなります。あの子の笑顔を、なぜ私は忘れようとしたのか」

セリュナが隣の椅子に腰を下ろす。古代龍族特有の気品を保ちながらも、その仕草には母親のような温かさがあった。

「お話しください」セリュナの声は、千年の知恵を込めて優しく響く。「あなたの過去を、そして息子さんのことを」

リベリウスの瞳に涙が浮かんだ。

「息子の名前はエミール。七歳の時に...病気で亡くなりました」

夜風が窓を通り抜け、リベリウスの頬に涙の跡を残す。その風は秋の匂いを運んでいた──枯れ葉、実りの季節、そして別れの哀しみを。

「エミールは料理が大好きでした」リベリウスが記憶を辿るように話し始める。「妻のアンナが作る手料理を、いつも『美味しい、美味しい』と言って食べていました」

彼の瞳に、遠い記憶が蘇る。

「日曜日の朝、アンナがパンケーキを焼いてくれた時のことを思い出します。エミールは小さな手でフォークを握り、『お父さんも一緒に食べよう』と言って...」

リベリウスの声が震える。

「私は忙しくて、『後で食べる』と答えました。でも、その『後で』は永遠に来なかった。エミールが病気になってからは、もう家族で食卓を囲むことはありませんでした」

慶一郎が料理教室の指導を一時中断し、リベリウスの元にやってきた。調和の炎を静かに燃やしながら、彼の心の痛みを感じ取っている。

「病気は...治せなかったのか?」

「当時の医学では限界がありました」リベリウスの声が震える。「私は息子を救うために、あらゆる手段を尽くしました。最新の治療法、実験的な薬、そして──」

彼の表情が暗くなる。

「そして、合理性に基づく医学というものに出会ったのです」

エレオノーラとマリエルも、リベリウスの周りに集まってきた。料理教室の人々も、彼の話に静かに耳を傾けている。

「合理性に基づく医学?」マリエルが優しく問いかける。

「感情や希望的観測を排除し、純粋に効率的な治療のみを行う医学です」リベリウスが説明する。「患者の苦痛や家族の感情は考慮せず、統計と数値のみで判断する」

慶一郎の調和の炎が微かに揺らめく。

「それで、息子さんは...?」

「合理的判断により、治療は『非効率』とされました」リベリウスの声が絞り出される。「エミールの生存確率は統計的に低く、医療資源の配分として不適切だと」

セリュナの銀色の瞳に、深い悲しみが宿る。

「つまり、息子さんは見捨てられたのですね」

「はい」リベリウスが頷く。「しかし、その時の医師たちは言いました。『感情に惑わされず、合理的判断を下すことこそが、真の慈善である』と」

夜風が強くなり、窓辺のカーテンが激しく揺れた。まるでリベリウスの心の嵐を表しているかのように。

「私は...その理論に納得してしまったのです」リベリウスが自分を責めるように言う。「息子への愛情が、合理的判断を妨げているのだと。だから、感情を捨てれば、もっと多くの人を救えるのだと」

マリエルが愛のペッパーミルから、記憶の香りを放った。それは父親の愛の香り──深く、温かく、そして永遠に失われることのない絆の香りだった。

「でも、エミールくんは、お父さんの愛情を求めていたのではないでしょうか」

リベリウスが激しく泣き始めた。

「そうです...あの子は最期まで、私の手料理を欲しがっていました。『お父さんの作ったオムライスが食べたい』と」

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