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火と神の囁き(導火の章・囁かれた焔) - 『焦土の入口と、獣の娘たち』

 北の風は、焼かれずに腐る。


 “コルンの窯”と呼ばれたその地に足を踏み入れたとき、俺はそれを皮膚で感じた。生温く濁った空気が、喉の奥を蝕んでくる。湿りすぎた空気に混じる、泥のようなにおいと、かすかに発酵しかけたものの腐臭。


 火の匂いが、ない。煙もない。焦げ跡もない。

 かわりに、赤黒いシミだけが点々と地面に残っていた。


 “これは……炊かれていない血の跡だな”と、思った。


 村は沈黙していた。門もない。柵もない。ただ、かつて何かが焼かれたようで焼かれなかったまま時間だけが過ぎたような、奇妙な静寂。


 銀髪の彼女——カレンは、腰に差した剣にそっと手を添えていた。癖のようなものだが、あれが出るときは大抵、何かが潜んでいる。


 ミナは荷を背負いながら、俺の隣で小さく呟いた。

「……ここ、ぜんぜん火の匂いがしない。あったかさも、何もない」


 アリシアは首をすくめながら、ノートを胸に抱えたままきょろきょろと周囲を見渡していた。王都育ちの彼女には、この土地の“空気の沈黙”は肌に合わなかったようだ。


 そのときだった。


 音もなく、何かが物陰から飛び出してきた。

 獣のようにしなやかな足取り、風のような踏み込み。


「火を持っているな! 火の者かッ!」


 叫んだのは、二本の耳を持つ少女だった。短めの赤毛が跳ね、腰には短剣、動きはまるで野生そのもの。

 猫か狼か、それとも狐か。耳はぴくりと動き、鼻先には獣の本能と人の理性が共存していた。


 もう一人、背中から弓を抱えた姉と思しき少女が、木の上から音もなく降り立つ。


「ナリ! 抑えろ、まだ判断が早い!」


 姉の名はサフィ。黒い毛並みと冷静な瞳が印象的で、妹とは対照的に一言ごとに重みがあった。


「でもサフィ姉ちゃん、この匂い、明らかに焼き物の残り香だよ!」


 俺はゆっくりと両手を上げた。手のひらに焦げた香草がこびりついていた。前夜の串焼きの名残だった。


 サフィが弓に手をかけながら、冷えた声で言った。

「名を。火の名を言え。焼いた皿の名を持つなら、この村では……その火ごと処される」


 その言葉に、アリシアが息を呑んだ。ミナが俺の後ろに半歩下がる。


 だが、俺は答えなかった。


 代わりに、腰の小包から、干し芋を取り出し、包みをゆっくりと開いた。

 鼻を抜ける、炭に近い焼きの甘さ。


 ナリが、反射的に喉を鳴らした。


 火を禁じられた獣の民。

 その胃袋が、脳よりも先に動いていた。


 沈黙の中、遠くで“鐘”のような音が鳴った。

 それは祈りでも警報でもない。まるで何かを裁く儀式の始まりを告げるかのように。


 サフィが目を細めた。

「……あの音は、“審問の火”が呼ばれた合図だ」


 俺たちは知らぬ間に、ただの旅人から“異端の火持ち”として、この地に火を焚いた罪人として、焔に照らされる場所へ導かれようとしていた。


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