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完璧な目玉焼きと、不完全な人生の終わり

 深夜零時。東京の片隅。雨上がりの舗道にはまだ水たまりが残り、街灯の灯りが揺らめいていた。


 店のシャッターは静かに閉ざされ、雑踏の音は遠い。世界が眠る中、厨房の中だけが淡く灯っていた。


 俺はその光の中に、たった一人で立っていた。


 照明は必要最低限しか点けていない。明暗の境界が床を横切り、ステンレスの作業台に静かな影を落としている。


 冷蔵庫の低いうなりと、換気扇の規則的な呼吸音だけが、空間を満たしていた。そして、その音すらかき消すように、


 ——ジュウウウ……。


 鉄のフライパンに落とした卵が、油の中で軽やかに跳ねる。


 白身がふちからじわじわと固まり、黄身は中央にふくよかに座して、まるで沈黙の中に佇む宝玉のようだった。


 火加減は、弱火と中火のあいだ。温度にして約160度前後。


 視覚、聴覚、嗅覚、そして肌に感じる熱。

 全感覚が、この一皿のためだけに研ぎ澄まされていた。


 俺の脳内から、時間という概念が消えていた。あるのは、音と香り、そして絶対的な確信。


 この瞬間が好きだった。世界がひとつの目的に向かって整い、己の意識すべてが“卵”と対話しているかのような感覚。


「……あと十秒。いや、七秒だな」


 ひとりごとのように呟く。

 けれど、その声には祈りのような響きがあった。


 誰もいない厨房。客も、スタッフもいない。ただ卵と俺と、完璧を追う意志だけが存在している。


 どうしてこんなにも目玉焼きにこだわるのかと、何度も聞かれてきた。

 だが、その答えは単純だった。


 これは、俺の原点だ。


 ——小学生の頃、寝坊して、遅刻寸前だった朝。

 慌てた母が、冷蔵庫の中から見つけた卵ひとつ。


 油をひいたフライパンに、落とされたそれ。

 白身は少し焦げて、黄身はとろりと崩れていた。


 けれど、その味だけは今でも覚えている。


 泣きそうになるほど、あたたかかった。


 たった一皿で、人の心が満たされる。そんな奇跡があるのだと、あの時、確かに思った。


 その朝から、俺は料理という世界に取り憑かれた。


 火と油と塩。それだけで人を笑顔にできる。こんなに素晴らしい仕事が他にあるかと、子供ながらに震えた。


 だから俺は、料理人になった。


 料理とは、魔法だと思っている。


 味と香り、温度と彩り。

 それらすべてが、言葉よりも雄弁に“想い”を伝えてくれる。


 だからこそ、俺は目玉焼きにこだわる。

 誰もが知っていて、誰もが作れる。

 だが本当に“泣けるほど美味い”目玉焼きを、作れる者はそういない。


 俺はそれを作る。

 この世界で、誰よりも美しく、誰よりもあたたかく。

 それが、俺の矜持であり、宿命であり、信仰だった。


 焼き音がわずかに変わる。


 白身のふちがキツネ色に染まり、香ばしい芳香が鼻を擽る。


 それが合図だった。


「……3、2、1」


 火を止める。


 フライパンを傾け、丁寧に、慎重に、卵を白磁の皿に滑らせる。


 崩れない。

 完璧な姿のまま、皿の中央にすとんとおさまった。


 上から岩塩をひとつまみ。

 高く持ち上げた指先から、さらりと雪のように振り落とす。


 塩の粒が黄身の頂点に触れ、白身に小さな音を立てて舞い落ちる。


 その瞬間、世界が静止した。


 美しかった。


 完璧な——目玉焼きだった。


「……できたな」


 その呟きが、世界の終わりを告げる合図だったかのように。


 パンッ。


 音がした。

 銃声だった。厨房にはあまりにも似つかわしくない、異質な音。


 背中に熱。


 いや、氷のような冷たさが一気に這い上がってきた。


 温度感覚が崩壊する。


 身体の奥に、何かが突き刺さったような確かな衝撃。


 その瞬間、俺の視界が、音が、重力が——すべてが、崩れた。


 世界が、ゆっくりと傾いた。


 時間の流れが、まるでスローモーションになったかのように緩やかに崩れていく。だが、それは錯覚ではなかった。俺の体内のすべてが、確実に“終わり”を迎えようとしていた。


 最初に感じたのは、痛みじゃない。


 違和感だった。


 全身を満たしていた“いまこの瞬間”の静寂が、ぶつりと断ち切られた。まるで魂と肉体を繋いでいた糸が切れたような、取り返しのつかない裂け目が、俺の奥底から広がっていく。


 パンッ。


 破裂音。


 厨房には似つかわしくない、異質で異様な“それ”が空気を切り裂いた。


 背中に走る衝撃。瞬間的に走る熱。だがすぐに、そこから冷気が流れ込むような感覚へと変わっていく。


 火傷と氷結が同時に訪れるような、肉体の境界がわからなくなるような混乱。


 呼吸が止まった。


 空気を吸えない。肺が動かない。


 それでも視界は妙にクリアで——

 目の前の皿の上にある、目玉焼きが見えた。


 完璧だった。


 数分前の自分が成し遂げた奇跡。それが、皿の上に確かに存在していた。


 だがその黄身が、震えていた。


 俺が皿を置いた時の微細な振動が、まだ残っていたのか、それとも——


 目玉焼きが、傾き始める。


 黄身が、滑る。


 ゆっくりと。とても、ゆっくりと。


 崩れてはいけない、と頭が叫んでいた。

 止めろ、と体が悲鳴を上げていた。


 でも、指一本、動かせなかった。


 黄身が、潰れた。


 完璧だった一皿が、完成の直後に崩れていく。

 まるで俺の命そのものが、あの黄身とともに潰えたようだった。


 もったいない。


 それが、俺の中に浮かんだ最初の感情だった。


 悔しさでも、恐怖でもなく——ただ、“もったいない”という言葉だけが浮かんでいた。


 誰かに食べてほしかった。


 俺が、この命と引き換えに焼き上げた一皿を。

 笑ってでも、泣いてでも、なんでもいい。


 誰かに、届いてほしかった。


 料理は、想いを繋ぐものだと信じていた。


 俺の全人生を、全技術を、すべてを注ぎ込んだ目玉焼き——それが、誰にも届かず、ただ崩れ落ちるなんて。


「……けい、ちょ……!」


 誰かの声が聞こえた。女の子のような声だ。うちのホールスタッフか?


「慶一郎さん!? うそ……ちょっと、誰かっ、救急車呼んで!」


 遠い。まるで水の底から聴いているようだった。


 名前を呼ばれたのに、応えられない。声も出せない。


 床が冷たい。どうやら俺は倒れているらしい。


 天井のライトが滲んで、揺れて、複数にぶれて見えた。


 右手を伸ばす。

 けれど、動かない。


 目玉焼きに触れたかった。


 最後に、もう一度だけ、あの一皿を感じたかった。


 だってそれは——俺の人生だった。


 視界が、狭まる。


 音が、遠ざかる。


 全身が静かに沈んでいく。


 だけどそのとき、不意に懐かしい香りが鼻先を掠めた。


 それは、あの日の朝——

 母が作ってくれた、少し焦げた目玉焼きの香りだった。


 ——完璧な目玉焼きの記憶とともに、俺の意識は、そっと闇へと溶けていった。

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