55話 炎
半ば強引に休息を取るよう言われたサラであったが、それは客観的に見ても実に正しい判断であった。
あの夜に限らず、サラの精神状態は、昼以降からも異常な程に乱れ始めていた。
そう、先日この家に食料を運びにきたグレーデンが来たあの時を境にして―――
彼が言伝したあの知らせは、サラにとってすさまじいほどの恫喝を与えるものであったことは言うまでもない。
最初は不安から始まり、それが徐々に恐怖へと移行して、最終的には抑えられない程の強い強迫観念がぼろぼろだったサラの心をえぐった。
そそれはすぐさま、彼女の生活に支障をきたしだす。
普段の家事はおろか、まともに家の中を歩くことさえ困難になってしまう程に。
サラの精神がここまで早く消耗したのには、いくつか理由があった。
当然、グレーデンから聞いた内容にショックを受けたことも、その内のひとつに含まれるだろう。
だがそれは最たる原因ではなかった。
サラをここまで追い詰めた一番の原因―――
それは彼女が不安を誰にも告げないまま、ひとりで抱え込もうとしたことにある。
そうするしかなかったのだ。
この家に、『大人』はひとりしかいない。
さすがに子どもにこのことを話すわけにはいかない。
少なくとも、話すにはまだ早すぎる。
サラは始めの段階からそう考えていた。
元から責任意識が強い彼女にとって、そう考えに至るのはむしろ普通のことであろう。
しかし結果的には、その責任感が仇となってしまう。
疲れ切ったその心は、〈ティフなら別にいいか〉という甘い理由から、すんなり彼に話を打ち明けることを許し、赤裸々に自分の持っている情報を吐きだした。
最終的にそれが、他の家族全員に話を盗み聞きされることになるなんて、全く想像もしていなかっただろう。
故に自室に戻った際には、彼女はそれを大きく反省した。
―――なんであの時我慢できなかったんだ。
―――大人の問題を子どもに背負わせるなんて……そんなの最悪過ぎる。
―――情けない………。こんなにも頼りない自分が、本当に大人として情けない………
そんな自己嫌悪を繰り返している内、サラは自然と眠りに落ちていた。
それは単に、自分を嫌悪する心持よりも、精神的な疲れの方が優に上回ったというだけのことだろう。
△△
時刻は夜の二時半。
依然サラは眠りに就いたまま、起きる素振りも一切見せることなくそのままベッドに横たわっていた。
そんな折。
突然『バンッ!!』と、勢いよく扉が開かれる音が鳴り響く。
この個室からも、十分に大きく響く音だった。
「ん………?」
直後、閉じたままだったサラの瞳がゆっくりと開かれる。
―――今、何か音が鳴ったような……
朦朧とした意識の中、彼女はふと幻聴にも似た感覚を抱いた。
目尻を擦りながら、ゆっくりとベッドから腰を上げる。
サラは近くにあったランタンの蝋燭に火を灯すなり、部屋から出た。
向かった先はティフの部屋。
当然寝ているだろうから、彼女は音を立てないようゆっくりと扉を開ける。
「あれ……いない?」
そこに人の気配はなかった。
念のため、サラは手に持っているランタンを掲げ、それが本当に間違いでないかどうかもう一度確かめる。
布団は綺麗に折り畳まれたまま、ベッドの後ろに追いやった状態である。
後は純白のシーツが見えるのみで、どう見てもそこに人はいなかった。
「…………」
思わず眉を寄せるサラ。
こんな夜の時間帯に自室にいないのは、さすがにおかしい。
となると、リビングにいるのだろうか。
あの後自分はティフよりも先に自室に向かったから、一階にあるという線も考えられる。
いや、それしか考えられない。
サラは向かう先を一階に移すべく、すぐさま階段を下りていった。―――その時だった。
「………?」
階段を下りた先―――玄関の扉から、ふと言霊のような光が視界に映りだす。
赤く、そして淡い光。
加工が施されたそのガラスから映る光は、思わず『火』を連想させた。
「…………っ!」
嫌な想像を浮かべた彼女は、慌てて残りの階段を下り始める。
「空いてる……?」
扉は開けられたままだった。
おかしい。
だって自分は昨晩、二階に向かう際ちゃんと施錠を済ませたはずなのだ。
その記憶は、今でも鮮明に思いだせる。
「……………」
神妙に、その扉に向かって手を伸ばす。
木の軋む音と共に、サラは握りしめたその手をゆっくりと引っ張った。