チンギス・アラゾフとマラット・グレゴリアンの試合
(注意:本稿では敢えて人名の敬称を略させて頂いています。悪しからずご理解、ご容赦の程よろしくお願いいたします。)
週末、マラット・グレゴリアンとチンギス・アラゾフのキックボクシングの試合が行われた。
20年ほど近く前、ボクシング以外では日本は間違いなく格闘技に於いては大国アメリカを差し置いて世界の最先端を走っていた。
今の若い人には信じられない話かもしれないが事実だ。
今を時めくUFCですら日本の格闘技団体PRIDEに競争負けをしており、UFC代表のダナ・ホワイトは何度も破産を覚悟するほどの大赤字の状態であった。K-1にしろ、MMAにしろ世界中の人が日本の格闘技団体に注目していた。
日本のMMAでは火の玉ボーイと呼ばれた絶対王者・五味隆典やバカサバイバー・青木真也が世界の注目を集め、キックボクシングでは魔裟斗が日本人初のK-1王者を二度も戴冠。ヘビー級の武蔵も二度のファイナリスト(準優勝)に上がるほど外国人に勝るとも劣らない結果を残している。
しかし、残念ながら現在の日本の格闘技は海外の後塵を拝す団体になっている。
RIZINは実質的にUFCの下位にあたるBellatorとの対抗戦で大敗を喫する。先日、見事に鈴木千裕がBellator王者パトリシオ・ピットブルをKOせしめる大金星を挙げて世界ランキングに上がっているが、それとてはっきり言って相性問題が大きい。MMAのストライカーとしては優秀なパトリシオ・ピットブルだが、鈴木千裕はキックボクシング団体knockoutの絶対王者に君臨しているほどのハードパンチャーである。打撃の差し合いになれば勝負は目に見えている。しかし、これはMMAの試合。鈴木千裕を強者せしめている異常な攻撃力の支えとなっている前に出て倒しにかかる勇気が、今回はたまたま良い方向に向いただけで、パトリシオ・ピットブルが危険を察して寝技に持って行っていれば、恐らくは勝負になっていないほど鈴木千裕は大敗したであろう。それほど鈴木千裕は未だグラップラーとしては修行中の身と言わざるをえない。柔術家クレベル・コイケの寝技になすすべもなく惨敗した試合を見れば鈴木千裕の寝技の未熟さを納得していただけると思う。
しかし、そうは言っても勝負は勝負。鈴木千裕は間違いなく自身が所属するRIZINの実質上位互換の団体Bellator王者パトリシオ・ピットブルをKOせしめた事実に陰りはない。
ただし、それは相性問題があった事。鈴木千裕が王者クラスのグラップラーを苦手とするストライカーである事実もまた変わらない。
そして、そもそもがBellatorは世界のトップリーグではない。その上には超えられない壁と言っても過言ではないUFCが存在する事実を考えれば、日本のMMAが世界のトップではないことは明らかである。
それはキックボクシングの世界でも同じことが言える。
現在、世界クラスと目される選手に海人、野杁正明、和島大海、原口健飛、武尊があげられるが、この中で全幅の信頼が置ける選手がいるとしたら原口健飛、武尊だけであろう。この二人は別格だ。間違いなく世界最強クラスの選手であろう。全団体を通してどの世界王者と戦っても、どちらが勝ってもおかしくない勝負をするであろう。それほどの実力者だ。
しかし、かつてはK-1MAXとして世界に名を馳せた70キロ級には現在、海人。野杁正明。和島大海がいるが、現代段階ではこの3名でも上で名前を上げたマラット・グレゴリアンとチンギス・アラゾフには歯が立たないであろうというのが正直な感想である。これは筆者だけの感想ではなくKー1王者魔裟斗も認めるところである。海人も野杁正明も和島大海も世界に通用する選手ではあるが最強クラスには未だ及ばない。
日本は未だ世界トップであった15年前の幻想に比べられらてしまう。
そんな現在の格闘技事情の中、70キロ級世界最強であるチンギス・アラゾフとマラット・グレゴリアンの試合である。世界中のキックボクシング界が注目し、上で名を上げた野杁正明、和島大海も現地で観戦した天下の大試合である。その試合を見てKー1MAX王者魔裟斗は「二人とも(野杁正明、和島大海のこと)、現地で観戦してレベル高いなっておもったんじゃない?」と、現実的に今の日本のキックボクシングが世界トップクラスではないことを言葉で濁しながら述べた。それが事実である。
しかし、その試合内容はどうであった。確かにパワー・スピード・テクニック全てにおいて日本のそれを大きく凌駕している。最高に見ごたえのある試合だった・・・・・・。最終の5Rを除けば・・・。
最終の5R。すでにそれまでのラウンドの3つは取っているものの、5Rに入る前に徐々にマラット・グレゴリアンのボディ打ちのダメージを感じさせていたチンギス・アラゾフは、徹底的に逃げに徹してポイントアウトをして勝利せしめたのだ。この逃げぶりは実際にレフェリーが一度試合を止めてちゃんと戦えと指導をしたほどである。
しかし、チンギス・アラゾフはそのファイトスタイルに徹して勝利した。試合内容としては正に完封勝利と言っても過言ではない。この逃げに徹してポイントアウトするというのは競技化が進めば進むほど重要な戦略になって来るのでチンギス・アラゾフがこの戦法を取ったところで何の問題もない。
プロにとって最も大切なことは勝利することだ。ポイントで勝っているのに敢えて危険を冒してクリーンファイトをすることは、とても危険である。相手から痛恨の一撃を食らって敗北することなど全くもって珍しくないタイトルマッチに於いて、それは本当に危険な選択肢なのだ。だから、チンギス・アラゾフの戦法には正当性があり、称賛されてよいものなのだ。
プロは絶対に勝たねばならないのだ。
無理に勝負を挑んで敗北してしまった時に「善戦しましたね」「諦めずに最後までよく戦った」は選手本人でないから言えるいわば、「他人事」である。選手は命がけで勝利を目指している。絶対に勝ちたいのだ。だから、クリーンファイトよりもポイントアウトのために反則擦れ擦れの逃げに徹する作戦は繰り返すが正当なものである。
しかし、それはファイターの立場に立った場合のものの見方である。
試合観戦していた現地のファンはどうであった。5Rに逃に徹したチンギス・アラゾフに対する大ブーイングである。それはそのはずだ。ファンは男の戦いが見たくて大金払って観戦している。勝負から逃げて勝利に徹するファイトは卑怯とさえ感じたのだろう。それは中継の解説者も思わず「逃げている」と断定せざるをえないほどであった。
筆者は思う。15年前のK-1であれば、許されなかったであろうと。
なぜならレフェリーはじめ興行側は観客の怒りを優先するからだ。より良いファイトを見せなければ客にそっぽを向かれてしまうと危険を感じてしまうからだ。
競技としてはチンギス・アラゾフに正当性があるものの、興行としては、それはタブーの行為なのだ。
この競技者と観客の両者の倫理観の相違は昔の日本のK-1でもたびたび起きたことがある。
即ち最終ラウンドで逃げに徹して勝利する試合である。これは興行主が危険を察知し、実況席で大いに批判したり、レフェリーがイエローカードを提示して「戦え」という罰をあたえて観客の怒りの留飲を下げる必要がある。
それでも不満が収まらずに翌日のスポーツ新聞で記事になったり、格闘技雑誌で酷評されることもしばしばあったのだ。つまり、当時の日本のキック界。いや、世界のキック界ではポイントアウトするために逃げるという行為はスポーツマンシップに反して卑怯であると認識され、試合後も怒りが収まることが無かったという事だ。
くりかえすが、ポイントに勝っている選手が最終ラウンド逃げてポイントアウトすることは悪ではない。
ただし、これは興行である。アマチュア競技ではないのだ。観戦者がいてお金を払ってくれるから成立するプロ興行に於いて観客は第3のレフェリーと言っても過言ではない。フェアでない試合を繰り返す団体には、お金を払ってまで客は見に来てはもらえない。つまり、赤字となってしまうのだ。
この両者のパラドックスが競技の衰退にもつながることは、かつてのK-1を見れば明らかである。モンスター路線に走り、選手の反則が横行し、空席が目立つようになった。かつて東京ドームの最大来客数を記録したほどの大イベントさえ崩壊したのだ。
ところがだ。此度のチンギス・アラゾフとマラット・グレゴリアンの試合は現地のブーイングは大きかったもののさほど団体の興行人気には影響を与えていないし、チンギス・アラゾフの作戦に対するバッシングも見かけない。これはどういうことであろうか?
それは単純に観客層が競技に対しての見方が成熟したということに尽きる。倒すか倒されるか男のプライドを賭けた戦いが前面に出ていた2000年前半までとは、明らかにキックボクシングのファン層が競技的な見方を重視して、その内容に不満を覚えても結果を許容するまでに成長した証拠なのだ。
そして、客がそれを受け入れると選手もそれに合わせて変化していく。逃げも正当であると客に許容されるのであれば、それを行使しない手はないのだ。
これはそういう話だ。
ここまで来て筆者が何故、こんな格闘技話をよりにもよってなろうでしたのかを語ろう。(もしかしたら、ここまで文章を読めるような人はいないかもしれんが。)
それは時代時代の変化によってやはり価値観が変わるということはあり得るという事でもあり、納得しつつも不満は腹に溜まっているという事だ。
小説を書くときにあからさまにわかりやすい人間ドラマが描かれ、それが好まれる傾向にあるなろう系小説にはこういった微妙さが表現できない人が多く、理解できない読者が多いという事は、上で上げた事例とはまるで逆の現象である。すなわち退化・幼児化である。読みやすくわかりやすい娯楽作品が好まれるのは全時代、世代を通じて当然の話だが、そこが創作の頂点となるのは全くもって退化と言わざるをえない。本来、名作とは読み終わってから何年たっても議論が生まれるほど、謎を内包していなくてはいけない。わかりやすいゲーム展開、シナリオ、人間ドラマが重宝されるというのはとても危険なことである。
なぜなら、そういった単純すぎる物語はパターンを抽出するだけの作業をするAIにも書けるものであるからだ。人間として小説家として読み手として、難解に挑むことの大切さを忘れないで欲しい。
人間の退化は人間の敗北でもある。結果としてAIが勝利してもそれは仕方がない話であるし、AIが絶対に悪い者であるとは言わない。必要ならばドンドン使用すべきだろう。
だが、書き手こそは己の心にある物語を書く魂を忘れないで書き続けるのであろうから、時にはAIには書けないような作品を書くべきだと思う次第である。
以上で本稿を締める。