アニメ映画における音楽の使用を見上げながら
新○誠作品の『君○名は』より、僕たちはアニメ映像に対して、音楽が顕著に前傾化するのを感じてきている。今までは、音楽は、BGMや効果音など、映像を、補強するために存在している傾向があった。
21世紀、アニメ映像と音楽は対等、場合によっては、音楽に映像が引っ張られていくという状況になってきている。
そこでは、映像を、分かやすくし、音で映像を現実的に見せるということは無視される。このような無視が可能となったのは、まずは映像美が上がってきたことがある。デジタル技術の進歩のおかげで、スクリーンの光景を、わざわざ音で強化することをしなくとも、十分にリアルに説得的なイメージを提供することができる。
ここで、音楽は映像から自立する。さらには、音楽のリズムによって、映像を動かすという逆のことも起こる。ミュージックPVで、先に見たこともあったものが、アニメの劇場へと入ってきた。
映像から音楽の離脱、そして音楽の支配。劇場アニメには、まるでクラシックの曲のように、音楽的な盛り上がりができ始める。ちょうど第九や運命のようなクラシックの交響曲のようなものが、ささやかに流入してきている。映画は、音楽的時間へと変容し始める。
初期の映画は、無声映画であって、純粋にイメージ、画像的なものであったことを考えると、感慨深いですね。映像の強化が、逆に、映像的であることをやめることになるとは。
映像を盛り上げるための音楽の使用は、完全に古きものとなった。雨の表現に、余計な音を入れなくてもよくなった。光と影と色彩で、リアリズムが獲得された。リアルへの希求は、もはや映像美にとって、すでに目の前にあるものとなった。もう、音楽がその音を追加しなくても、脳内で勝手に音が流れる。音楽の役割は、自然の音、リアルな音を追加することではなくて、ロマン的、幻想的な音を追加することになる。
突然、歌い出すのは、ロボット映画とかでありがちだった、それはショーとしての音楽。違和感が、現実との乖離によって、際立つ異形のアニメ手法だった。
なぜ今、音楽なのか。
デジタル技術は、視覚文化を拡張してできているのではないか。
単純に考えたら、そうかもしれない。
しかし、現代のデジタル革命とは、コミュニーケーション革命であって、その本質は、声と文字だ。
私たちは、コミュケーション手段として、映像を補助的に使っている。本質的に、声と文字に頼って、Twitterやメール、さらにはニュース、を聞いている。映像は、補助材料となっている。
写真やテレビの時代から、スマホになって、実際に起きているのは、映像の氾濫ではなく、文字と声の氾濫だ。私たちは、声と文字を、以前の時代の数倍摂取している。しかし、目の前にある絵は、いつの時代の人々も見てきたものだ。
YouTubeでも映像的な巧さよりも、トーク力が、その人気になっている。そこまで高度な編集技法が使われることはなく、何よりも話がうまいことが大事になる。見ていられるということは、聞いていられるということに、代わっている。
情報は、映像で流れているわけではなくなった。映像は、情報を補強するものとなった。聞くことが、見ることを押しのけた。視覚文化は、視覚を娯楽として、余計なものとして、排除することになった。人々は、文字と音に反応して、そのあと、イメージへと向かう。高度にリアルな映像は、映像への注目を下げる。違和感のないものとして、映像は無意識の領域に下がっていく。人は、映像を覚えていない。人は言われたこと、書かれたことで、コミュニケーションしている。たとえ、映像の解像度が、どんなに鮮やかになっても。いや、鮮やかになったからこそ、人は、自然と、声と音に反応しやすくなった。
音楽の自由は、アニメ映画を変革し始めている。音楽が、これほど巧みに利用可能となったことは、映像の発展なくしてはありえなかった。けれど、その結果は、映像の主体性は、徐々に失われ始める。人は、音楽が鳴っている部分をよく覚えるようになるだろう。どんなに良く描けている部分があったとしても、音楽のサビが、注目をかっさられていく。
アニメの挿入歌や主題歌が、アニメを踏み台にし始めている。本質的には、アニメは、それらを払いのけて、アニメたることを宣言していなければならなかったのに。
アニメが、音楽を利用してきた。音で、人々に、二次元的な紙芝居を、リアルにして、のめり込めるようにしてきた。今は、音楽に、アニメが振り回されている。アニメと音楽の調和のシーンは、かなりインパクトをもって、印象づけられる。この総合芸術は、アニメと漫画の距離感を強くした。音楽の効果は、漫画原作の作品を、今まで以上に分離した。
読む体験、絵の体験ーー、純粋な絵の芸術、そこから、僕たちは、遠く遠くに立っている。ワーグナーの芸術が、西洋の終末の芸術であったように、今は、日本アニメの最後の終末なのだろうか。総合化された芸術は、それぞれの部分を連結する中で、部分部分の力を弱くしていく。総合的な音色が、ハーモニーを描く中で、徐々に徐々に、部分は力を吸い取られていく。独り立ちができなくなっていく。
アニメの日本での鮮やかな発展形態の最終形態を、見ている気がしてこないでもない。
最後の形態は、華々しい人気と、その後の没落に。
アニメのセリフを忘れてませんか。
アニメの一枚の絵を忘れていませんか。
総合芸術の中で、残るの物語的なストーリーのみになってくる。
体験は拡散していく。
見ると聞くの両方の体験は、深さよりも広さ、攪拌していく自己を意識させる。
『ミネルヴァのフクロウは、夕べに飛び立つ』
文化の終わりでこそ、人々は、その文化をすくい上げようと、最大限の力を発揮しようとして、文化的なモニュメントが残っていく。
映画の時間芸術性が、燦然と立ち現れ、映画は映像よりも音楽と和解する。時間芸術の中で、絵画は、ただの小休止になり下がる。動きは、時間の中にあって、以前から映像は動き続けてきた。しかし、アニメショーンは、どこかで、一枚絵に、頼ってきた。音楽と映像は、接着剤にくっつけていただけで、まるで別個のもののように存在して、そして、アニメショーンは、絵画性を持っていた。
僕たちは、空間芸術としてアニメを楽しむことができていた。それはフィルムの入場特典や色紙の絵、ワンカットのポストカード。僕たちは、アニメを静止していた。カメラを止めるんだ、さあ、そこで、映像を停止させるんだ。それが、観るということだ。変化の瞬間は、とらえる必要はない。それは作画崩壊ではない。じっと固まった映像の中に奥行きがある。
音楽は、静止を止める。波のように、絵画を流していく。何もかも、止まるなという命令が、聞こえて、僕たちの本能は、音楽に飲み込まれる。
一瞬の芸術ーー時間芸術から切り取られた空間芸術の中で。僕らはキャラクターという言葉を好む時、それは時間から切り離されたものを見ているから。ストーリーは分離し、二次創作は可能となる。音楽は二次創作を拒む。それは音楽的なものだ。音楽はアレンジされるが、ぶつ切りにして、ほかに挿入されることを好まない。
映画は音楽と、見事に結婚していくだろう。音楽的な映画が、映画を褒める言葉になるのだろう。
その時、僕たちがリメイクしていくのは、音もなく、一枚一枚、写真を静かに見せていくことだけだ。
たまには、ふざけたエッセイも書こう。ノリと即興。
TikT○K動画とかも、音楽に合わせて、絵を動かすものか。
徐々に、アニメも聴き流すだけで、映像を見ない人もいるみたいだし、ボイスコミックのような形に収斂したりするのか。ミュージックビデオのようなアニメ。
テンポがいいという褒め言葉。声優のセリフに絵を合わせていく。




