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60話目 一人称とか三人称とかとかとかーー結局ーー分からん


「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした。その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。」


 これは、志賀直哉系だ。日本人の文体の核だろう。言文一致の一人称といえば、「私はーーした」系の日記文体もしくは報告文体だ。

 まるで自分を俯瞰している冷静な自分がいるかのような書き方だ。まあ、これがデフォルトの一人称だろう。勝手にそう思っている。

 現場で起きているはずなのに、何故か距離を持っている人。

 お前、誰に語っているの?と語りの対象の不在さが際立っている。まあ、読者に語っているとしようね。


「私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである」


 これは報告系に近いですね。回想形式を用いた文体だ。まあ、一人称系の系譜っぽい。





「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。」


 三人称神視点のようにも見えたけど三人称単一系。冒頭が神視点っぽいのに、単一視点とも取れる。





「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりの剥はげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。」


 三人称神視点の冒頭。

 作品全体で見ると、単一とも取れなくはないけど、冒頭は神視点に近い。

 日本語の視点で神視点を維持するのは困難になりやすいので、だいたい単一視点風になっていく。というか、完璧な神視点で書くと、作家が全面に出ている感が凄まじい。それに、ミステリー要素が吹き飛ぶ場合が。




 三人称複数視点か三人称単一視点が、一般的な長編小説だと思う。

 ただ素人であったワタシ的には、三人称そのものがよく分からずーーあれ、いつのまにか一人称っぽくなってないかと思っていた。


「ミカゲは、彼女の手を振り解く。邪魔だ。急いで駆けていく。彼は、カバンを持って、出ていった。ああ、忌々しい」


 こんな文章があると。『邪魔だ』とか、『ああ、忌々しい』が一人称っぽく感じてしまうのですよね。


 ええ、それでいいようです。


 本当は、「彼はーーと思った」なんですけど、一人称風な心情を、滑らかに文章に導入する方法のようで、三人称そのもので書くと、煩わしいですし、テンポや緊張感も落ちるので、そう書くそうです。


 英語とかだと、He think thatを省略していくような感じですね。


 あくまで三人称単一視点のようです。

 ただ日本語は、結構多用しますね、こういう書き方を。ラノベも基本そうだよね。


 なぜか日本語はすぐに、視点人物に寄り添う傾向があるようです、たとえ三人称でも。

 日本語が、あまり完璧な三人称向きじゃないからでしょうけど。



 まあ、言文一致運動の名残りらしいですね。書き言葉を話し言葉にしたから、書き言葉の基本が話し言葉化しているので、主観がバンバン混じってしまうのが避けがたいようです。

 日本語の小説だと、すぐ、お前は誰に語ってんの、と思ってしまいますよね。太宰治とか、やばい、語りかけられてる、とか感じますし。





 三人称単一系の視点が、一番書きやすいのは確かだとおもう。

 一人称単一視点を完璧にやらないといけないとなると、困難がーーー。プロでもズレてる、いや諦めているのかもしれないけど、そんなレベルだ。まあ、ラノベでも見るときは見る。会話主体系になっていたり、饒舌系だったりとかーー。


 三人称でも、スルッと心理描写に入れるわけですし、後ろから寄り添うような形で描写できるのは、便利だなぁ。


 あと一人称のメリットに、感情移入しやすいや細かい心理描写ができるとかあるが、そうだろうか。あまり実感としてないんだが。個性を出しやすいのは一人称だと思うが、感情移入はしづらいし、心理描写も細かいという気もしないしーー。

 メリットって、現場感というようなリアリティと個性ぐらいでは。地の文まで主人公色に完全に染めれますし。





 なぜ、初心者が一人称で書きたがるのだろう。日記や報告文体に引っ張られているのか。それとも日本語そのものが、話し言葉の書き言葉だからか。


 ちょっと持ってる本を手当たり次第に開いてみるといい。たぶん三人称が多いと思う。自然と勝手に一人称と勘違いしている場合が多いけど。一人称になりたがる言語だから。私が私が、とIはつかないのに、やたらと客観的になりづらいんですよね。観察や分析が下手な日本人の典型です。村上春樹みたいに一回、英語で書いてみればいいのか?ああ、語学力。



 まあ、でも昔の文豪も一人称で書こうとしてますし、なんだか書けそうな気がするですよね。小説全般もそうですけど、自分でも書けそうとか思うんですけどね。

 諦めて三人称に収束していきますけど。漱石も三人称になっていきますし。


坊ちゃん、草枕、吾輩は猫、と初期に固まっているイメージ。どれも個性が際立つキャラを一人称に据えてますね。

 でも初期に書いたということはーー、いやいや、文豪を考えるのはやめとこう。








 『以下、感想とその返信』



一言

さしずめなろう特有?の変な一人称小説は一人称神視点って感じですかね・・主人公がテレパスとか未来予知してるレベルの小説。

投稿者: アヤネ

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2020年 10月16日 22時26分

感想ありがとうございます。


そうですね。一人称神視点ーーまあ、視点がズレまくってるのと、意識せずに表現を使っているからだと思いますが。神ですよね、一人称のーー。


相手の心情に急に入ったり、フラッシュフォワードを使いますからね。

色々と表現手段は読んだり見てきているので、おかしなところで使ってしまうのでしょうね。


なろう主人公のチート能力の一つですね。

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雨森ブラックバス 

2020年 10月16日 23時18分

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一言

あくまで印象で正確なデータがあるわけではないですけど、文学作品は一人称が多い気がします。ひとりの人間の生き様とか考え方とか、そういうテーマが多いですし。

ついでに、三人称でも神視点は海外の作品に、日本では一元視点が多い印象が。


厳密には三人称一元視点では『人物の心理描写をしてはいけない』となってますけど、これ最近あんまりタブー視されていないように感じます。自由間接話法で時の文に直接的書くのも許容されてますし。

あと完全にラノベ文化ですけど、丸カッコでモノローグ入れるのも、完全に許容されてますし。

投稿者: 風待月

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2020年 10月15日 22時10分

 感想ありがとうございます


 文学作品は、どうなんでしょうか。個人的には私小説ジャンルでも、三人称が多いイメージですが、まあ、文学作品の時代の違いもあるのでしょうけど。『蒲団』とか『破戒』とかの私小説は三人称ですし。なぜか一人称だと思いがちですけど。単一視点かも怪しい。まあ、黎明期ですからね。

 最近の傾向が分からないので、本当アバウトなイメージに過ぎませんが。

 でも、三人称単一でも印象は、一人称っぽいですよね、日本語の小説だと。


 意外とラノベが比較的一人称多いかもと、少ないデータで思ったりしたりーー、どこかに統計データあればいいんですけど。


 海外は三人称を三人称で広げていきますけど、日本は固定していく感がありますね。これもイメージですが。まあ、海外の小説は翻訳の少量しか入ってこないので、如何とも言えない。語学力が足りない。


 三人称一元視点は、心理描写は普通にオッケーな感覚ですが。三人称神視点だと禁止とする場合が多いかもですがーー。いや、あまりこのあたりは気にしてませんね、自分もーー。最近の読者同様です。

 海外は自由間接話法もありますが、日本語訳すると、ほぼ完全に一人称のセリフですからね。

 完全に心理描写を禁止するとハードボイルド風な作風になりそうですね。

 


 ( )でモノローグは、『とある魔術』とか『文学少女』とか有名どころでも使ってますね。まあ、表現手法が増えていくことはいいことですけど、それで廃れていく部分もあるので、考えものですね。

 強力すぎて、使わずにはいられないんですよね。楽をしてるとも取られかねませんが。テンポの問題もあるんでしょうね。

 漫画的リアリズムだと、吹き出しの心情表現代わりとか批判がきそう。



モノローグ(内的独白)に、自由間接話法と来たら、完全に『意識の流れ』の議論になっていきますね。

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雨森ブラックバス 

2020年 10月15日 23時38分

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一言

最初、失礼ながら人称の区別も付かない馬鹿なのかと思って読み始めましたが、非常に面白い考察でした。

確かに、日本語の小説は人称の区別が曖昧ですね。

ハードボイルドみたいに、キャラクターの行動の描写だけで話を進めるのは、書き手と読み手の双方に力量が無いと感情移入が難しいですから……。1人称というのは、どちらにとっても初心者向きなのでしょう。

文豪と呼ばれる人たちも、その例に漏れないのでは(笑)

投稿者: 洋平1122

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2020年 10月15日 21時11分

タイトルは、まあ、その通りですからね。


元々、人称をそこまで意識していなかったという点もあるんでしょうね。単一視点で固定せよ、というのも西洋からの輸入のようですし。まあ、小説自体が西洋からの移入なわけだから。


ジャンル小説とかは、やはりジャンルのお約束のようなものもあるので、ラノベ系やハードボイルドにしても、読者と書き手双方で、成り立っていくものですよね。ある種の仕草とかの意味も文化が変わると読み取れないわけですし。



初期は、実際、文体で実験しまくっている感が強いですね。読みにくいのは、本当に読みづらい。

一人称は、書き始めるのはいいんですけど、終わらせるのが困難なイメージですね。文豪も苦労してそう。

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雨森ブラックバス 

2020年 10月15日 22時49分

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良い点

 これまで読んだ『人称に対するエッセイ』の中でも、一番わかりやすく、誠実だと思いました。

一言

 一人称に関しては、日本の場合、戦後純文学が私小説を中心に展開されてきたのもあると思います。


 大衆小説の場合、共感性を重視するので、一人称におけるリアリティが、主人公への感情移入のしやすさになるのだと思います。

 これが戦後純文学になると、主人公が異常な場合が多いので、当然、感情移入は難しいというか、むしろ逆になります(少なくとも私はそうです)。


 初心者が一人称で書きたがるのは、『主人公≒作者』だからだと思います。


 というか、そもそも『語り』というのは、本質的に主観的なものです。客観的に観察していたとしても、そこには観察者の主観性が入りこんでいます。

 三人称において、語り部は案内人でありますが、同時に読者と同じ観客でもありますから、この構図がみえている人は、三人称で描くことが容易だと思います。

 つまり、舞台の演出家の感覚で作品を作れるのだと思います。

 三人称は、物語の全体像が決まっていて、テーマへの答えが固まっている場合において特に便利だと思います。

 一人称は、物語の全体像が決まっていない状態で、テーマへの答えがなくとも、むしろ、それを探してゆく場合において、便利だと思います。特に叙事的な説明がおざなりで、矛盾があったとしても、主人公の勘違いだったと説明しやすい所は、初心者にも優しい人称だと思います。

投稿者: クロスオーバー

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2020年 10月15日 17時08分

 感想ありがとうございます。

 お褒めの言葉もありがとうございます。



 私小説が文章として選ばれたことは関係してそうですね。そのかわり、社会派やファンタジー系の文章の流れが弱まっている感がありますね。心理描写がグッと大事になっていますね。



 感情移入は、個人的には、一人称の方が距離を感じますね。一人称だと1人の他者という認識が前面に出てくる気がしてーー、一般的には感情移入しやすいといわれますが。一人称は個性を出すので、合わない場合が印象に残っているせいかもしれません。

 映画とかも一人称みたいな1人の人物の視点からの映画よりも、普通に演劇を見るような映画の方が感情移入しやすいですし。



 主人公≒作者は、確かにやってしまいがちですね。もはや登場人物全員作者の分身という時もあります。


 なるほど、一人称で自分を主人公にして物語を構築したいという感じなのかな。とっかかりとしては、書きやすさはあるんですよね。



 語りというのが、完全に客観的にはならないのは確かですね。

 どこかの視点からは、必ず語らざるを得ない。当然、異世界にいても、描写は異世界の住民のような語りにはならないですし、語りの受け手を意識して、分かるようにもしないといけないですね。

 それに、何を書いて何を書かないかという取捨選択も含まれますし、言語自体が客観的に世界を描写することができているのかとか、語りの受け手が、どうとらえるのか、とかもーー、ややこしくなりすぎですね。



 一人称が、描写を主観に持ち込めるので、おざなりで済む面はあると思います。高校生の主人公なら、詳しく描写する方がおかしいという場面もあるでしょうし、分からないものは分からないで済みますし、SFの一人称で科学技術とかを詳しい説明なしで、動作と結果だけで済ませたりーー。


 矛盾を勘違いだったとなると、どうなんでしょうか。うーん、ミステリ風とかだったらいいかもですけど、訳もなくやりすぎると、『信頼できない語り手』となっていき、変な効果が生まれそうですが。編集できるところは書き直しがベターな気もーーできなければ誤魔化していくしかないですが。



 まあ、とにかく、なんでも書いて失敗するのが初めのうちは正解な気もします。失敗すれば気付く点はいっぱいですからね。私も失敗しまくりです。 

 よく見るーー、とりあえず、長編一本仕上げてみろ、というアドバイスも確かな気がします。


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雨森ブラックバス 

2020年 10月15日 21時09分

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一言

一人称多用の結果が、side 形式なのかなと

思ったりします。

それはそれでひとつの形なんでしょうか。

投稿者: 椎名ユズキ

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2020年 10月15日 10時25分

感想ありがとうございます。


Sideも一人称で書く人と三人称で書く人がいると思うのですが。一人称の方が多い気はしますね。三人称複数視点の場合、わざわざSideと書かなくてもいいでしょうし。


Sideでも、頻繁にしなければ問題ないような気はしますが。誰か根本の一人称の主人公を決めておいて、ヒロインの心情が書きたい、と思った時に、【Side:ヒロイン】の一章を入れてーー。webだと、そこまで気にせずに読み通せるのですが、書籍形態だと頻繁にSideを使うのは厳しい気がしますね。



個人的には一人称を2人分準備するよりは、三人称複数視点で解決した方が楽だと思いますがーー。もう1人の一人称の個性がよく書けたり、ミステリー要素や恋愛のハラハラ感のために使うとかなのでしょうね。



なろう系だと、sideはゲームの別視点的な感覚で取り入れているのではないかなぁと思います。一つの形としては、面白ければ、あり、かと。

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雨森ブラックバス 

2020年 10月15日 20時16分

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良い点

雨森さんの説、共感します。私は一人称、三人称と書いていますが、あまり意識はしてません。

少し前、夏目漱石の『草枕』を読了しました。以前、冒頭の『智に働けば・・』を読んだ記憶があるのですが、今回改めて読んで驚きました。本文169p注解330ケ、難解です。休み休み読んで、読了まで2か月かかりました。

その間、いろんな本を読みましたが、内田康夫さんの『隅田川殺人事件』なんて、ものすごく読み易く一日で読み終えてしまいました。

雨森さんは、すごいですね。志賀、川端、芥川、夏目・・私にはマネができません。

投稿者: 森三治郎

---- 男性

2020年 10月15日 08時36分

感想ありがとうございます。


夏目漱石だと、本当に未だ手探りで、文体を作ろうとしている感があって面白いですね。『草枕』は、大学中に読んだきりですが、漱石の中でも読みづらい本ですよね。今読めばまた、違う印象を受けそうです。



読書は結構偏っているので、志賀や川端や太宰とかの以前の有名作家はだいたい新潮文庫で読んでますが、日本の現代作家はからっきしです。東野圭吾や佐伯泰英や宮部みゆきさん達ですら一冊も読んでないのでーー。


内田康夫さん『隅田川殺人事件』も題名は聞いたことはあるだけなので、今度、手にとってみますね。


気に入った本や作家を読むのが一番ですよ。マネしてたら、いつまでも終わらない義務的読書が始まるのでーー。読まないといけない、は苦しいですからね。

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雨森ブラックバス 

2020年 10月15日 19時56分


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