ネット小説考ーーなぜ文学から離れていくのか
文学性というものは、大概のところ言っちゃえば、含み、というモノや、読者を考えさせる微妙な描写のようなものです。
異論は認める。
当然、文学性とは表現力ーー、つまり、文体の雅趣という派閥もありますし、文学性とは、現実世界との関わり合いという派閥もある。その他諸々、いっぱいだぁ!
まあ、いいや。
どっちにしろ、ネット小説が文学的な面から離れていっているのは確定的に明らかな雰囲気があるような気がしたマウス。
分かりやすくて、暗示もなく、決まり切った文章に、決まり切った展開ーーなんてつまらないストーリーテリングなんだ。
全く文学を、なんと心得る!!
というふうなーー一時代前の批判を真似てみる。
しかし、これを上手にカイトウランマできないなぁ。
つまりーー、なんか、人類はバカになったとか、知性が低くなったとか、道徳的な批判のような安易なものを回避できないかなぁ。
そして、便利な言葉を、見出した。
声の文化と文字の文化である。
ええ、有名な文字の発明による人類の思考形態が変わりました云々だ。人類学者と言語学者と古典文学者と考古学者と、まあ、色々に敬礼。
結局、ネット小説とは声の文化なのかもしれない。
いや、純粋な声の文化ではないけど。(純粋な声の文化とは、書き言葉を持たない言語のことで、お願いします)
声の文化では、決まり切った表現や慣用句とか定型句、紋切り型表現が重要になります。だって、リズムで記憶しやすいものじゃないと、どんなに頑張っても、消えてくからね。抽象的で観念的なのも無理ーー、具体的な物が記憶しやすいよ。
ネット小説は、さ、声に似てるような気がします。というか、ラジオやテレビとかの頃から、徐々に声の文化に揺り戻しがかかっているんだと思う。
だって、音声や映像で残せるのに、文字にしますかね?わざわざーー。いや、座談会とかの筆記化や円朝の速記もあるけどね。
みんな文字を読まなくなったんでしょう。活字離れ云々。まあ、文字は読んでるだけどね、文字は。
ネット小説ーー声と同じく、読み捨てていく感がすごい。立ち止まって、読むというより、流して読む。目は焦点をむずぶよりも、次々と、次のコマへ。
だから、声系の文化に片足突っ込んでる文字の文化に近いよねぇ。
文字の文化は、決まり切った文句を嫌います。その程度の表現、前からあるんじゃい!、と反発します。全ては、作者の天才的な直感による独創性豊かな語彙を求めます。
そして、文字の魔力によって、人は、その文章で立ち止まり、味わうのです。ああ、素晴らしい思索の塊をーー。文字文化は記憶の箱を手に入れているので、辞書でも他の書籍でも援用し放題。
「どうだ、我の完璧な文学は!」となりにけり。個性流々ですね。
まあ、声の文化だと、流行語でも、誰が言い始めたか不明だったりするんですけど。みんな、そんなことに興味ないし。誰も、著作権なんて主張しない声の文化。まあ、喋った瞬間に消えてますからね、声はーー。方言も、いつのまにやら。
Twitterとかも、明らかに文字の文化というより、声の文化だと思う。そこには文字に偽装された声がある。声のような文字がある。
そして話し言葉風の心内文や心内会話へと文体は移行していくのであった。なんだか、軽くライトな感じ。
声の文化では、分かりにくさは致命的だ。
え、今、なんて?
え、それって、どういう意味?
おいおい、会話に水を差すなよ。
意味不明な漢字と違って、意味不明な声は、精神病っぽく取られて、さいならです。
文字は死んでいるので、まあ、目の前に止まってヒエログリフな感覚で、読む解けばいいですけどーー、ツイートを一つ一つ分析する?いや、これ文字だけど、文字じゃないし。
文学とは、まさしく文字の文化における集積上にあるっぽいんですけど、だって知ってないと読めないことって多いですし。パロディとか語彙とか、色々。文学上の価値って、他の文学作品との関係もかなり重要になるけどーー。
まあ、文学も初めは声の文化の延長から生まれているので、口述筆記とか、結構、声の文化よりじゃないかな。『ドンキホーテ』も、まだ声っぽい。『金色夜叉』も、各家族が読んで聞かせたらしく、文章が声に注意してますね。
文学となった瞬間って、どこなのかなぁ。まあ、線引く意味はないような気もするが。
まあ、いいや。
声の文化としてのネット小説ーーああ、眠い。
大統領戦を、電子技術という媒体で声的に追いかけていだが、うん、明日の新聞を待つ。まあ、終わっているか分からないが。
インタビューとかも声の文化だろうなぁ。
声から文字ーー、文字から声へ、と。
生の声ーー、うーん、そういうのが主流になっていくだろうし、文字は不利だろうなぁ。
というか、そろそろ、以前の活字中毒がわからなくなる時代へと突入していくのだろう。メイビー。
文字は二次生成的で、信用できないみたいな。まあ、声を書き写したり、要約するだけの機能に落ちぶれるなら。ーー当然、研究や科学や法律は文字文字し続けてるけど。やっぱり抽象的な考えは、文字さんの独壇場になりがちですからね。
そして、小説や政治や社会やらは、声の文化へ。
という感じで締めくくってしまおう。バタンッ!
ガチャリーー、さて、場も鎮まったし、どうしようか。
声の文化では、深読みとか、あまりしないので、そのまま受け取ります。そのままといっても、まあ、比喩ぐらいはOKですけど。決まり切ったね。
ただ、無駄な謎掛けは困難ですね。
あまり高度なサブテキストを見抜かせようとするのは、やめた方がいい。そもそもサブテキストの意味がわからない。
ーー同志よ!!
まあ、サブテキストは、言外の意味です。
『僕が近くの席に座ったら、彼女は離れていった。』
あいつ、俺に惚れてやがる!!
ああ、嫌われてる。
まあ、こういう言外の意味が読み取れそうだよねぇ。え、言葉じゃなくて、行動じゃん?行動も、まあ、広い意味では言葉の一部としましょう。ボディランゲージ的なーー。
まあまあ、実際、声の文化で、サブテキストばかりだったら、通じなくなりますよ。そのままの意味で取ってください、基本はーー。
変に勘ぐらせる描写とか、うっとうしいだけじゃないかな。
会話とかで、そんな暗に含ませる表現を多用したら、イライラしますよ。え、日本人は曖昧な表現を好む?いやいや、まあ、だいたい、それでもわかるハイコンテキストな文化圏ですよ。
あ、会話って書いたけど、これは実際の会話文というより、小説としての文章全体ですけど。
まあ、声の文化では、声はコミュニケーションで使って、独り言製造機ではないので、必然、会話風になるんですけど。
【追記】
ネット小説が、電子機器の影響にさらされて、声の文化を取り入れた文字の文化であるとして、なろう小説は結構、その特徴を持っていると思います。
声の文化は、エピソード中心でプロットが希薄で、書籍のように閉じられることはない。同じようなエピソードが、何度も続く場合もある。
本という形態は、閉じる必要があり、プロットが重要視される。一度、出版されると、訂正がきかないので、何度も反省と推敲をしないといけない。
この点は、ネット小説の場合、一度出しても編集が効きやすく、さらに書く行為よりも素早くタイプするので、純粋な文字文化の本という形態から離れていってる。
なろう小説の主人公は、かつての声の文化の作品のように、旅をしながら、エピソードを拾い上げていくという過程に入りやすく、終局的なラストへとプロットを一直線に綴っているという物語構造ではなくなり、ある種、間延びにも寛容になる。
ネット小説は、本という形態を意識していないので、完結して閉じるという方向には向かわない傾向がある。
また、本と違って、読者の反応を逐一意識できる点も、声の文化に似ている。物語を語っていた声の文化の場合、聴衆の反応を見ながら、物語の語り方や筋を変えるのは当たり前のように行われる。本の場合、想定読者の反応は、意識されているようで、やはり仮想にすぎず、マーケティングのミスに顕著のように、ズレた予想もしがちになる。
ただ書籍化する際には、このネット小説独特の形態が、本という形態に向かない可能性もありーー、云々。
なんだろ、この真面目すぎる文はーー。
声で話している時、人の興味を惹きつけ続ける必要がある。じゃないと、人は話を理解できなくなる。お笑いとかコントとかにしても、退屈にさせたり、別のことを考えさせないようにしないといけない。
先生の話は眠りに誘われますね。まるで書籍の音読だ。教科書読んでる風よりも雑談の方が覚えているわけですよ。声の性質から逸脱していると、記憶は作動しないはずですし。
文字は、まあ、気の向くままに、いつでも読めるのですが、声は、その瞬間いま、ここというものに縛られている。文字は飛ばすことも立ち戻ることもできる。
また、声は、聞き取れる分かりやすい言葉を選ぶ。ちょうど大統領の演説の如く。難解な用語は、避けられる。さらに、何度も同じことを別の言葉で述べることも必要になる。聞き取れなかったりする場合が考えられるので。
声のように、文字が過ぎ去っていく。
ことばは、元の音声になり、記号でありながら、記号の刻まれて残ることを失う。
大量の文字の濁流で、文字が流れていく。そして流れていくことが前提に、文字が綴られ始める。
『以下、感想と返信のコピーとなります』
一言
作者が裏で設定を作っているのは当然あると思っていますが、その設定まで表(小説内や前書き、後書き、感想やSNS)に出してしまい、背景を考える余地をなくしているのが問題にはあるのかもしれません。
よく国語の問題で「この時の〇〇の気持ちを答えよ」とありましたが、答えまで出してしまうのが声、あえて描写せず、曖昧さを許容するのが文字なのかもしれないと感じました。
主人公の世界観と、世界とにギャップがある方が面白く思っちゃう変わり者の意見ではありますが。
投稿者: doctort
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2020年 11月06日 23時04分
感想ありがとうございます。
そうですね、声の場合、裏設定や背景はなくなりやすいですね。証人喚問のように問いを出して、事実関係を明らかにする方に向かいやすいのかな。
文字は沈黙できますが、声の場合は、無理やりにでも聞き出そうとする傾向が出てくるので。黙ることは、あまり許容されないようです。現代は黙秘権とかはありますけどね。
声の文化は、明らかにせよ、と要求するのかもしれません。啓示宗教とかは、原典とかでかなり文字化されているから、汲み尽くしがたい何かが裏にある雰囲気を醸し出すのでしょうし。
声の文化は、分からなければ、いくらでも声を使って、確認し合うことを求めるし、それは共同の現実への見解なのでしょうが、文字の文化は、自分だけの現実や解釈に、走っていくのかな。文字を読み取るのは、孤独な作業ですから。
声の文化には、共有されてこその面が、文字よりも多いのでしょうね。
それに、声の文化の社会では、みんなが知っているお話を、話し手が話すので、そういう場では、話の筋とかよりも、その場で共有される雰囲気こそが、問題になってたりもしますし。(テンプレなんですね、予想通りだけど、それでいいんです)
ある種、声の文化は、応酬のように議論する性質もあります(現在の炎上とか)が、文字の文化になると、饒舌や無駄な言葉を弾き、最小限の言葉化していき、結果、謎的要素が多くなっていくのでしょうか。
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雨森ブラックバス
2020年 11月07日 10時52分
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一言
声文化、なるほどそうなのかもしれませんねぇ……より直截的に、分かりやすく。私は小学生を活字本だけで育ち、大きくなって動画に触れこそしたものの、大学で論文を読み始めたらまた活字に戻って行きましたね。
今自分で書いている小説も、かなり言葉の言い回しに気を遣いながら書いています。それが好きだとおっしゃってくださる方もいらっしゃるのですが、しかしともすればとても表現が迂遠で冗長。それで多少なりポイントがついているのは、構図自体は分かりやすくしたからでしょう。つまり「テンプレを採用しつつ、中身を迂遠にしても、その先の結末は分かりきっているので気にならない」ということだと思っています。
好きな、得意な方は言外の気持ちも汲み取ってくださるし、そうでなくても経過は何となく察される。それで起承転結を一回りさせたのでうまくいったのだと思いますが、しかし現状その後で詰まって結構苦しんでいます。構図に手を入れたら途端に詰まったのです。
ここからなろう小説としての形を保ったまま先へ進むには、相当な実力がないと難しいのかもしれません。ちなみに英語は表音文字ですが、ネット上の英語の崩れ方も恐らく声文化に依るものだと思います。すごく音的に詰まって簡略化されているのです。ら抜き究極系のような感じですね。かつてのナッドサットを更に極端にしたような。
正直英語論文とか、表現にいちいちバリエーションが多すぎるので、声文化になってくれないものかと思うこともありますが、研究ともなると細かい違いを強調する必要性があるのでそれだと困るのですよね……だから学者先生の話すことは声なのに文字文化的で、分かりにくいのだと思います。そうすると、ますます学術の世界とリアルが離れていくのではと結構危惧していたり。余りよろしくないのですがね……
投稿者: 藤海昇
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2020年 11月05日 22時48分
感想ありがとうございます。
声の文化自体は、上手く表現できなくて、申し訳なく思うのですが、直截的で分かりやすいという点や状況への依存性が高かったり、それに、純粋な声の文化には口頭伝承や『イリアス』とかの壮大な傑作もあるというーー、不思議な文化なんですが(大概の特徴は記憶への便宜だと思いますが)、ただ、この声の文化と文字の利用が電子機器で結ばれたときに、文字の文化的な特徴が弱くなっていっているのかなぁと。声化する文字という認識でしょうか。
文字を書く、読むのは孤独で、反応のない行為のはずだったのですが、それが、根本から変容していってるのかと。声の文化も、そのままでいるわけではないですけど。文字と声が隣接してきているのか。声の優位性が高まったのか。
現代恋愛、日間一位も取っているようですし、多少のポイントどころではない気がーー。構図、頑張ってください。これしか言えないーー。
ネットのスラングや略字のようなものは、声の文化でしょうね。声と文字を直接結びつけるようなーー、書き言葉を無理に話し言葉風にしているのでしょうね。
(ナッドサットが分からず調べるーーなるほど)
たぶん、論文は、ほぼ文字文化の化物ですよ。
元々は、おそらくラテン語という書き言葉のみの特殊な言語形態から来ているものですから。話し言葉の影響を受けずに、純粋に抽象的で分析的に思考できたから西洋の近代化があるのでしょうし。
まあ、活版印刷からの英語やトスカナ語や高地ドイツ語の書き言葉化の方が後々の発展には重要なのかもしれませんが。
声文化の方が色々方言とか出てきて、文字に置き換えるとバリエーションが増えそうですが、読んだ論文は、理論系の数式ばかりだったので、あまり実感がないのですが。文字でも、社会学とか哲学とかは、難解な用語が多そうですね。(声の文化は紋切り型表現が多いと思いますが、かなり地域性も高い場合が多いので。声が届く範囲が、声の文化になりがちですから。ただネットやテレビの発展がどう影響しているのか……)
学術とリアルとの乖離は、個人的には、当たり前な気がしてしまいますが。
文字の文化の特徴は、やっぱり、対象から距離を取れることだと思うので。離れたとしても、数十年後とかには、分かる人が増えたりしますし。
まあ、話す言葉が文字に影響されすぎるのは、どうかと思いますが。
でも、声の文化は、音声なので、すぐに消えて、ほぼ距離をとれずに、言い合いになりがちだったりもしますけど。リアルと近すぎてーー。
文字の文化は、読者をどう想定するかという時に、10年後の私とかで日記も綴れますが、純粋な声の文化は、目の前の対話相手が想定されるわけですし。(今の声の文化は、難しいですね。twitterとかは、どういう想定なのだろうか。文字であり声でありーー)
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雨森ブラックバス
2020年 11月06日 01時25分
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良い点
気持ちはすごくわかる点。
気になる点
①
でもなぁ、結局、なろうのランキング問題だからね。事の本質は……。
最近、久々になろうの日間ランキングを見て、で、上位5つまでのアクセス解析を覗いたんですが、異常ですからね。
作品発表して3週間目の4万文字の連載中小説が、140万件のユニークPVを獲得し、2万9千件のブックマークを得ている。
これが、なろうの現実です。
これには少しカラクリがあって、いわゆる短編でのマーケティングを、まずやっている部分があります。
が、もちろんそれだけじゃなく、元々、この人が書籍化をされている人気作家というのが前提にあるわけですが。
②
しかし、一応、2話まで読んだけども、私的にはちっとも面白くない。それどころか、なにが面白いのかが分からない。これはちょっとした恐怖です。
で、元ネタの短編のほうもちょっと覗いてみて、そこで、「ああ、そうか」となんとなく感じた。それは別にめずらしい何かではなく、いわゆる『なろうテンプレ』でした。
つまりですね、ネタ化ですよ。
分かりやすく言えば、内輪ネタ化、です。
③
たとえば、やおいの方々の会話って、むちゃくちゃにハイコンテクスト(意味における超共有化)で、ウケとセメという言葉を使わずに、棒と穴というイメージだけで、それらをやっちゃう場合があるんですよね。
すると、知らない人は、何の会話をしてるかさっぱりわからないわけです。
でも、会話をしてる本人たちは、めちゃくちゃに通じ合っていて、しかも、それは彼女らのツボとなる面白さの塊においてやりとりが行われるので、ものすごく楽しい訳ですよ。
たぶん、今のランキングにおける作品の幾つかは、こうした『ネタ化』がかなりあるのかなぁ、と思う。
別の言い方をすれば、様式化、もっといえば、テンプレ化という事ですけども。
でもね、
芸術において様式化というのは、何度も繰り返されて、その度に、陳腐化の方向に進んでいくのは、ある種のお約束みたいなもんです。つまり、いわゆるマンネリズムです。
だから、それだけをもって批判するのは、新しいなにかを提示できない懐古主義者みたいな感じになっちゃうんですよね。
④
そもそも、なろうテンプレに限らず、大衆小説のジャンル化されたそれらは、基本的に様式化され、そしてある程度、陳腐化されている。
ある程度で、留まっているのは、一般の商業書籍において、購入者が一般人だからです。
でも、なろうの場合、信者が購入するから、むしろネタ化は先鋭化してゆく、、、のだと思う。
つまり、それら作品が文学的でないと批判する意味そのものが、実は、ないんですよ。
かれは、文学として読んでないんですから。
別のモノとして、楽しんでいる。
⑤
個人的に、現代日本的な断絶が、文学というか、小説界隈でも起きているんだな、と、思った。
これは、アニメでは既に起きてるんですよね。
いわゆる萌え豚問題とか、売上厨問題とか、です。
一部の固定ファンが、その文化をジャックし、その方々の好みの作品が覇権をとる、という構図です。
でもなぁ、でもなぁ、これも言ってみれば、彼らはパトロンなんですよね。別の言い方をすれば、文化の保護者。
かれらが円盤を買ってくれるから、業界は成り立っている。
私個人は、ここら辺まで考えたのち、「うん、そういうのと競合するのは不毛で、別々の在り方を探し、共存していったほうが、いいよね」と、結論するわけです。
マイナーだとしても、別の価値がちゃんとあれば、問題はないハズです。
で、その価値をどう保持し、高めていくのか?
そこで思うのは、たぶんね、文学を重視している人ほど、実は、文学の価値を高めていない感じがね、するんですよね。
「文学はいいものだよ」そういう作品を書いてきているというより、権威主義的に振る舞っている人のほうが多いんじゃないかなぁ、とかは思ったりします。
一言
個人的には、ユニークPVが一万未満の作品に限定して、マイナー作品ラインキングというものを作ってもええと思うんですよね。
結局、読まれていない事が最大の問題だと思うので。
投稿者: クロスオーバー
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2020年 11月05日 11時23分
感想ありがとうございます。
大統領選挙見ながらの深夜テンションのせいで、かなり、羅列気味なエッセイになっていますね。申し訳ない。
そうですね、ランキングシステム自体が文学やマイナージャンルを駆逐しているという点はあると思います。
ネタ化やジャンル化やテンプレ化とかも定型化していく声文化の一種の形態かと。ここは、文字文化・声文化でスッキリ切れるか微妙なところですが。
文字文化に入ると、固形化よりも、新しい表現とか発展とかに向かうきらいが、高い気がします。
文学というのは、かなり文字や活字(印刷技術の発展)の結果なんだと思います。それが、ネットやテレビという電子化技術で、また変容しているのが現今なのではないかぁと。
近代の文学は、散文的で、そもそも声に出して読まれることをほとんど想定しなくなったはずだったんですけど、ライトノベル系はアニメ化とか想定して脚本的に発話・演技されることを考えているんだろうなぁと、感じます。
文学の権威主義的な面は、たぶんに感じますが、まあ、実際上の権力とかはないので、個人的には、プライドのようなものがいい方向に進むのならば問題ないのかな。でも、権威としての文壇のようなものは、もう存在が怪しく思えます。
まあ、文学好きのマウンティングぐらいが関の山では。つまり、生産者の文学者よりも、消費者の読者や研究者の権威的な立場になっているのかな。
あとは、消費者の好みなどで、作品が似た方向に偏ってしまう傾向ですが、文学だと、もう飽きあきした私小説ジャンルやアニメだと空気系とかでしょうか、個人的には、こういうものは社会の大局のようなもので、どうしようもないと思ってますが、取り残されるマイナーなジャンルは、細々と生きていくものかなぁと感じます。
価値云々は、難しいですね。個人的な趣味のようなものならば、個人で判断してくださいですが、社会的な価値とかの判断になっていくと、どうなんでしょう。役目を終えたら消えてもいいものも多いと思うのですが、無理にでも残すべきものとしての文学ーー神話とかと同じく過去の遺産として残っていくのみかもしれません。
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雨森ブラックバス
2020年 11月05日 16時48分
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一言
拝読しました。
昔に読んだ本でうろ覚えなんですが、高橋源一郎さんは“文学”をかなり広義(ええ、もう、かなり広く)に捉える自説を語っておられましたが、ほとんど覚えていません。
でも、「なんでもかんでも文学なんだよ」的な論だったように思います。
知らんけど(←大阪弁特有の、自信がない時の言い回し)。
小説として舞城王太郎さん(特に初期)は、エンターテイメント小説と文学の境界線にあるように、いろんな方に評されていたように記憶していますが、論点を語れるほど覚えていません。
ただ、「とてもマジメで堅い小説を書こうとすれば書ける実力の人なんだろうな」という印象を持たせる、でもブッ飛んでたり残酷だったり、時にライトノベルの一場面みたいなものも書かれる方です。
ボク個人は信者的にファンです。
ただ、ネットで『舞城王太郎 あるいは小説のための──』と検索すると、いろんなジャンルのエンターテイメントが隆盛の中での、舞城王太郎さんがしてる挑戦、みたいな記事が読めると思います。
これは、なかなか面白いです。
ボクのスマホは、この記事をいつでも読めるようにセットしています。
で、(感想の)本題ですが──。
声表現を意識したものが多いのは賛成です。
ネットの小説が、常にアニメ化やらを意識したりアニメの影響を受けたり、同じくネットの読み手自体も影響を受けてる人たちだからの流れのように思います。
表現については、ネットユーザーが読む小説だから簡潔、または自由度があるとすればお約束的な描写になる、ということかなと推論してます。
読んではいませんが、以前、図書館で『ネットでのモノの言い方』みたいなタイトルの本を見かけたことがあります。
パラパラとめくってみると、ボクのようなオジサンまたはオジーさん向けの本で、『ネットを利用する人たちには彼らなりの文章センスがあって、フツーの感覚でネットで文章をあげても、誤解されるか見向きもされない』という主旨だったように思います。
ネット小説が、(フツーの人がイメージする)文学と離れるとすれば、ここが1番の理由なんじゃないかな?と。
ただ、含みを持たせる、奥行きを持たせるってことが(一般的なイメージの)文学ってことなら、文章表現が変わっても可能ではあると思います。
それに、個人の苦悩や人生観みたいなものを織り込むことが文学的なら、やはり可能なんじゃないかな?とも。
なんていろいろ思いながらも、試行錯誤の日々です。
あと、ボクの短編エッセイで『大人になったらもう一度読み返すべきだと思う『坊っちゃん』──』に書いている読解というか仕掛けみたいなものは、文章スタイルが変わっていっても試せるように思っています。
投稿者: 託望
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2020年 11月05日 04時47分
感想ありがとうございます。
構成のなさを感じさせる自由気ままなエッセイでしたが。
文学の定義となると、難しいですね。書簡、手紙、日記、神話、軍記、詩、宗教書まで、ザッと入れることも普通ですし。
舞城王太郎ーー読んだことがなくてーー、まあ、そのレベルの読者です。
さて、フツーの感覚の文章とネット文章の感覚が文章表現だけの違いにはならないのだと思います。表現が変われば、やはり内容に多少波及するかと。
『夏目漱石センセイ自身は、そんなことを一言も言ってないけど、文学関係の人で、この作品を『書いてないことを読みとる作品』と認識してる人は多い』
このところかな?
石原千秋氏とかかな。斎藤美奈子氏も言っているのかな。
まあ、あまり文学理論は詳しくないのですが。
作者の意図よりもテキストを読者が読み解いていくという発想でいけば、ライトノベルも、そういう読み方は可能だと思います。特に説明が少なく、描写がきちんとしているものは。
ただエンタメ系は、あまり曖昧な表現を使わずに、読者への負荷を下げるように、言葉を選んでいるとも思います。文章表現自体が、含みをもたないようにしているのが、エンタメというジャンルになるのでは。
終助詞や接続詞まで微細に入っていく、そして感得していくとなると、個々の読者として行うのは良いことだと思いますが、作者がそれを要求していくのは無理があるかなぁとも思えます。かなり絶妙な文章力と読者とのマッチが必要かと。
こうも多様な解釈や読解ができるというのが、文字文化の一部なんだと思います。声の文化は、そこまで解釈や思考を要求しないので。覚えてられないから。
文字が、そこで止まっているからこそ、テキストをテキストの上の記号として、再解釈や解釈の解釈へと向かえるわけだし。
声は消えていくばかりですから。現在は、再生や映像記録という電子デバイスが発展しているので、声の文化といっても、かなり質が異なってきいると思いますが。アニメの解釈とかやりますし。しかし、解釈といえば、だいたいはテキストになりますね。
まあ、ネット小説も文章である以上、文学的な視点から向き合うことはできると思います。ただジャンル小説の段階でも言えますが、初めから『文学』として書いた方がいいのでは、と感じますが。わざわざ、エンタメやネット小説で、『文学』を目指す意味があるのか、疑問もーーかなり難易度が高そう。
このあたりも、何をもって『文学』としているのか、によりけりなのかもしれませんが。
挑戦するのは良いことだと思います。失敗しても、別に減るものないし、ネット表現と文学の技巧が、うまく折衷するなら、面白いと思います。
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雨森ブラックバス
2020年 11月05日 17時29分