ブラッド・ディスコード・ソロ
『ワインの樽に泥が落ちるように、土人形が、血溜まりに落ちた』
『地獄ノ門ガ天国二アルコトヲ知ル』
空を映したような瑠璃色の半透明な瞳は、一つの影を追っていた。廃ビルを縫っていく俊敏なうねりを、少女の瞳は逃さずとらえる。ビルの間を走る夜風が獣の匂いを撒き散らす。その匂いの元に、鋭い眼光を向けた少女は、十字架の形をした投げナイフを投擲する。夜陰に一筋の煌めきーー。
獣のうめき声がコダマする。鮮烈な血が路地のビルの壁に飛び散る。瞬時に、溶けて消えていく血を眺める。
「浅い…か」
冷静に少女は呟いて、乱れた紫水晶の前髪を鬱陶しそうに払いのけて、走り去っていく影を再び追う。獣の速度が落ちて、濃い影の形が浮かぶ。四足歩行をして、かけていく狼の姿。狩人の少女は、腰のホルダーから、投げナイフを抜き出し、夜を駆けていく。
「ヨルファ、早くしないとぉ、人混みに逃げられるよぉ〜」
狩人の耳に、通信機から、呑気そうな間延びした幼い声。およそ戦闘中には似つかわしくないユタの声音は、いつものことで少女は苛立ちこともない。
「分かってる」
少女は、呼気を早めて急ぐ。自分の失敗を解消するためにも。予想とは違った獲物がかかったせいだ。グッと足に力を入れて、手負いの獣に追いすがる。
夜風が肌を撫でていく。街路が入り乱れる廃墟の建物を黙殺して、投げナイフの牽制で獲物を誘導していく。
「この先はーー」
「行き止まりだね」
少女は舌舐めずりをして、ハンターらしい冷ややかな笑みを浮かべる。
「きゃぁあああああああああああああ」
悲鳴が夜を切り裂く。甲高い女の叫び声がした。
まさか、こんなところに人が……失敗したかーー。
「ひゃひゃひゃひゃ、ついてる、ついてるぜ、オレはな」
獣は、人の型になって、赤い髪の制服を着た少女を捕まえている。吐息で気絶させられ、後ろから手首を掴まれ、影にもたれかかるようにしている。
「その子を離しなさい」
夜の帳で、怪しく光るのはーー牙。人間の犬歯よりも鋭く脈打っているような生命を感じるもの。一般人ならば恐怖がまとわりついて重い底に沈められるような気分になりそうなーー妖艶にして奇怪な白い捕食行為。少女の首元から二本の赤いスジが降りていく。野獣の眼差しは紅に染まり、爛々とした獣性は夜の墨でも消すことはできない。
バキバキッーー。
「ぐひゃぁ、へーー」
少女の手首を掴んでいたはずの手は、逆に囚われの哀れな姫に、握り潰されていた。まるで骨なんてないかのようにアッサリとクラッシュされてーー、ぶらぶらと力なく千切れる前の木の葉のように、かろうじて繋がっている。
「なに、これーー」
瑠璃色の瞳が映し出すのは、少女に食べられていく家畜だった。ちぎられて、喰われて、啜られて、残骸が拡げられて、無惨に食い破られてーー赤い血をベットリと手と口につける……なにか。
制服の色が赤茶けていく。まだやめるつもりもないようだったが、少女の声に反応して、こちらを見つめてきた。すぐに、臨戦態勢を整える。
「ユタ、使わせてもらうわ」
白い錠剤を口にふくむ。本当は、教会では使用禁止されている薬物だけど、背に腹は変えられない。瑠璃色の瞳は、灰色に近づいて、瞳孔は細く鋭くなっていく。肌は先ほど以上に蒸気していき、仄かな温かさというより、燃えるような熱気を感じる。
しかし、少女が一歩を踏み出そうとした時、相手の何かは、事切れたかのようで、自分で作り出した血溜まりに前のめりに突っ伏した。
「だれぇ、こいつ〜、死体?」
夜の閉店した喫茶兼雑貨屋レ・ファニに、血濡れの制服姿の少女を連れ帰る。大量の血も少しずつ乾いて消えていっているが、浴びている量が多すぎるから、まだまだ付着して残っている。
店の木製の床にも、血液が付着するが気にする必要はない。どうせ明日の開店前には消えている。
「返り血よ、生きている。名前はーー」
血で汚れることを気にせずに、ゴソゴソとスカートのポケットや内ポケットを探っていく。財布を取り出して、生徒手帳を抜き出す。
「リシュア・モリゾノ」
「モリゾーノ?」
「モリゾノ、東洋系ね、日本人よ,ハーフだと思うけど」
「そっかそっか、で、なんで持ち帰ってきたの。ほっとけばいいじゃん」
興味を失ったのか、小さな少女は、重たそうなフリフリのドレスを気にしない軽やかな動きで、自身の定位置であるパソコンデスクの椅子に戻った。
それから目を移し、初老手前の男性の方へと向き直る。
「カチさん、診てあげて。首を噛まれたから」
奥に座っていた喫茶店のマスターは、雑貨を作る手を止める。小さな老眼鏡の位置を調整して、椅子から立ち上がる。
「噛まれているのか。すぐに解毒剤は飲ませただろうね」
「ええ」
「だったら、止血できていれば問題はないはずだが」
「血も止まっています。でも、この子ーー」
「何か問題がーー。血だらけだな。精神的な面は、私ではどうしようもないが。今では一介の薬剤師に過ぎないからね」
「ぷっ、元神父のくせに」
ユタが、隠しもせずに笑いながら、パソコンを打ち続けている。
「カチさん、この子、特殊な血の持ち主かもしれません。それも、とても危険なーー」
「なるほど、吸血鬼狩りになれると」
「どう……でしょうか。とにかくーー」
少女が逡巡していると。
「うひゃー、はい、これ映像、見る。これは、ヤバいね」
パソコン画面からローラ付きの椅子に乗ったまま、距離をとるユタ。少女の服に付けられた小型カメラを鮮明にした映像が、パソコンモニターに映っている。
「これはーー、ブラッディ・イーターか」
元神父は目を丸くして、口を震わせる。画面を凝視して、目を疑っているようで眼鏡に何度も触れる。
「ブラッディ、イーター?」
「吸血鬼を喰らう者だ。その昔いたと言われる伝説上のーー。まさか、彼女は、だがーーこれは理性がとんでいるな」
「ええ、なりふりかまわず」
殺戮現場の映像が途切れて停止する。ユタが画質を上げて切り抜いた映像は、ここまでのようだ。
「君が初めて、私の錠剤を呑んだときも暴走していたね」
「一度だけです」
「これは、逆の薬が必要そうだ」
「ヨルファさーん、学校終わりました」
喫茶兼雑貨屋レ・ファニに、さっぱりと赤い髪を切った制服姿の少女が入ってくる。シックな茶系統の色を基調にする制服は、近くの十字教会が経営する学院のものだ。最近は、学生の数も減っているので、宗教色は控えめになっているが、学院内の聖堂がシンボルとして目立つ。服に付ける校章のピンバッジは、聖堂を図案にしてデザインされている。
「ヨルファさん、って同い年よ」
「でもヨルファさんはヨルファさんって感じですから」
リシュアは、そう言って、奥の更衣室に向かっていく。この喫茶店の制服に着替えるためだ。といっても、統一されたウェイトレスの服はない。ユタが趣味で集めている服からウェイトレスっぽい服を着まわしている。自分では、まだ着れないサイズなのに、いつか着れると思っている。
「にっひっひ、使用料は撮影分でいいからね」と、着るたびに、一枚撮られるのは、気に食わない時も多いけど。
ヨルファは、奥の部屋にいるカチ元神父に、コーヒーを淹れる。いつも、正午前と午後には一杯飲む人だから。料理担当をしているカチは、なぜかコーヒーを淹れるのだけは苦手のようだ。
「いやいや、女の子に淹れてもらいたいだけのヘンタイだから」と以前ユタが言っていたけど、昔喫茶店でやることなく暇そうにしていたから、気を使ったんだと思う。今では、リシュアも来て、店員は十分すぎる。雑貨屋の方の店番のユタの手伝いもできるくらいに。
「カチさん、コーヒーです」
「ああ、ありがとう」
カチ元神父は、リシュアのために調合した薬剤を注射針にセットしている。赤い血のような色をしている不活化ワクチン。リシュアが暴走しないように、吸血鬼に対する血の反応を抑える効果がある。ヨルファが無理矢理血の反応を起こすのとは違って、純粋な血の系譜ーー生まれながらの狩人を鎮めるための薬剤。
「リシュアは、いつまで打つんですか」
「分からんが、効果を見るに、打って抑えていられるのは、二週間。徐々にまた、血の過剰反応が戻っている。彼女から採取した血液のサンプルは、打ってから日が経てば、吸血鬼の血や匂い、肉体に強く反応するようになる」
「普通の生活はできない」
「どうかな、今までは普通に生活していたのだから」
それはーー。
彼女の学園が高度の魔除けをし、彼女自身も魔除けの大きな十字架を首からかけていたからだ。それに彼女の義母ステファニ修道女が亡くなって、十字架に付与された祈りが徐々に消えていっている。
甘い匂いにつられるように、吸血鬼はこの街に集結し始めている。吸血鬼狩りの血は、吸血鬼を誘惑する。この前みたいな半端な吸血鬼にならば、逆に捕食されるだろうけど、もし、もっと上位の吸血鬼が訪れたらーー。
「とにかく、彼女が自分の力をコントロールできるようにならないとね。それまでは薬で抑え込んでいけばいい。ーー今は、噛まれたせいで防衛本能が昂ぶっているだけで、もしかしたら、落ち着くかもしれない」
「はい」
私が、カチさんの部屋を出ると、リシュアとすれ違う。
「今日もチクッとされるんですよ。あれ、痛いんですよね」
リシュアは、あどけない表情に、少し申し訳なさそうな陰を浮かべる。他人に気を使っている人間の見せる微妙な取り繕ろわれた。
「我慢しなさい。それかーー」
修道女にでも祈ってもらいなさい。あなたの毒を受け取ってもいいと思うくらい、あなたを愛してくれるーー犠牲者を。十字架の上で徐々に血を流す神のような子を。
少し苛立ってるのだろうか。この子が羨ましいーー、凶悪な力を簡単に得ることが出来そうな運命の血液が。
「さっさと済ませて、今日も働くわよ」
「はーい。ヨルファさん」
月夜は怪しく、赤紫色の世界。無数の亡者の腕が天から押し潰されて、闇の底に沈んでいる。黒い虚空に薄く塗られ、存在できるのは、闇夜の赤き生き物だけ。
「冥府より甦る。今宵、我等が姫君をお救いする」
射干玉色のコートで覆われた巨影の四辺には、揺れ動く吸血鬼の影たち。他の生き物は、いない。いたとしても、黒蟻の中の一匹の白蟻の如く、呑み込まれてしまい、地面と一体化されるだろう。そして、これほど密集した獰猛な獣たちが鎖を解かれた野獣のように狂った乱舞を見せないのは、統率者が目の前にいるから。
張り詰めた氷のような空の上に、視線を向ける統率者は、愛おしいそうに月の灯りを見つめる。切長の目を細めて、瞼は優しく徐々に閉じられる。
「ああ、リシュア様、貴方こそが次の吸血鬼の女王。何者にも邪魔はさせません」
小さな楕円形の古風なロケットをポケットから取り出す。白い手袋をつけた細い手で、脆く壊れやすいものを触るかのように開く。そこには、一人の吸血鬼と小さな赤毛の少女。色褪せた写真、いや少し焼け跡の残る写真。統率者は傷付いた写真より、遠くに焦点を当てているように見える。
「我が君ーーさぁ、月下の惨劇の幕を上げよう。我々は誰よりも早く、彼女を救出し、吸血鬼の宴の勝者にお導きする」
夜の闇に、影は水が染み込むように溶け出していく。月光は薄い雲を透過して、あたりを照らし出すが、地面には、染み一つない。
そして、最後の統率者も、いつの間にか、いなくなっていた。
「じゃあ、店閉めちゃいますね」
「ええ、お願い」
リシュアは、細い道路にあるレ・ファニの看板を店内へと片付ける。リシュアがキャスター付きの電光スタンド看板を、片付けているうちに、明日のゴミ出しのために、分別済みのゴミを裏口近くに持っていく。
「ヨルファーー」
「分かってる」
カチ元神父の言いたいことは、もう分かっている。凄まじい数の吸血鬼が、この付近に集結しつつある。こんなに濃い濃度を平然と撒き散らして、なぜ一気に襲ってこないのだろう。
「ごめんなさい。もう閉店でーー」
入り口の方からリシュアの声がした。
「いや、俺は、カチのやつに会いに来たんだ」
カチ元神父と一緒に喫茶店の方に戻ると、店内には、およそ喫茶店には不似合いな筋肉質な男性。厚めのジャケットに、指にはいくつもゴツいリングが付けられている。男は禁煙の店内で平気で葉巻に火を付け出した。
「十字教会の方が何の御用ですか」
「分かるだろう、嬢ちゃん。ヤバいぜ、これは。公爵クラスだ。下級貴族も三人はいるな」
葉巻を咥えると、すぐに擬似霊装をチェックし始める。バックから大型の銃。二装填のみの一発の威力が強いタイプだ。中折れ式の銃に、弾丸を装填し、弾薬帯を肩にかける。
ポキポキと関節を鳴らして、気になる点を確認しているようだ。
「クロム、どうするつもりだ」
「どうするもあるか、戦うだけだ」
コンコンと静かに喫茶店のドアがノックされる。窓の向こうの灯りはついてなくて、ひどく不気味に思えた。リシュアを喫茶店のカウンターの奥に引っ込ませる。
ドアが、ゆっくりと開けられていく。カランカランと喫茶店の呼び鈴が無機質に鳴った。
「初めまして、アシュレー・ロックウッドと申します」
現れたのは、細い顔立のフロックコートの紳士。ニコリと社交辞令の笑みを浮かべると、妖艶な牙は店内の光で輝く。光に当たる顔は、人間に比べて蒼白な印象を与える。
ヨルファは十字架型の投擲ナイフを取り出す。クロムは、すでに銃口を向けている。男は、そんなことを全く歯牙にも掛けない落ち着いた様子でーー。
「その奥にいるお方を、引き渡していただきたい」
「リシュア…のこと」
「はい。彼女は我々にとってなくてはならない存在なのです。もしお願いをきいていただけないのであればーー」
ヌッと全てを塗り潰すように、影が窓際を埋め尽くしていく。聖杯から血が溢れるように、夜の支配が蠢く。煌めくのは白亜のエナメル質。そして赫い爬虫類の如き瞳。
吸血鬼狩りなって以来、ここまでの恐怖が這い回ってる感触はあっただろうか。ヨルファは、沼に呑み込まれていくような、脚を数多くの腕が掴んでいるような気分がした。喉元にナイフを突きつけられて、咽喉が詰まるような刹那に湧き上がる重圧と緊張。希望の光すらも塗り潰されてーー、呼吸が荒くなっている。
「おいおい、こいつはーー」
クロムは平然とした雰囲気を見せようとしていたが、冷や汗が頬を伝っている。圧倒的な存在ーー大量の吸血鬼を、まるで空気のように従えるもの。
「ああ、貴方たちが私につけた名称は、夜の指揮者でしたか。本名は、アシュレー・ロックウッドと申します。ですが、貴方たちを始末すると、呼称は広がりませんね」
「マジもんの化け物がーー」
クロムの砲撃が、二発連射される。近距離からの銃撃を避けることはできるはずもなく、腹部に二発の弾が直撃した。
しかし。
吸血鬼は、一瞬、背を丸めただけで、手で服を払う。フロックコートには大きな穴が空いている。二つの穴は破れて繋がって大きな穴になっている。
「これ、結構高買ったんですが。しかし、擬似霊装では、私は倒せません。せめて、罪禍の剣とかのレプリカでもなければ、傷もつきまーー」
男の顔を蹴り抜く。蹴り抜いたのは、ヨルファの一撃。銃撃の瞬間に錠剤を呑み込み、薄まった血の系譜を無理やり爆発させる。吸血鬼狩りの血が熱く燃え上がり、ヨルファの瑠璃色の目は、燃え残った灰の色に染まっていた。
吹き飛ばされた男は、ゆっくりと立ち上がる。まるでコマ戻しをしたように戻る姿は異様だ。
「これは、流石に痛いですね。なるほど、そちらは教会関係者ではなく、古き血の生き残りですかーーもう全員食べ尽くしたものと思っていましたが」
「何を言っているの。リシュアを狙っているのは、その古き血が目的なんでしょう」
「リシュア様が古き血……愚かですね。彼女に流れているのはーー」
ヨルファは気がつくと吹き飛ばされて、喫茶店の壁に打ち付けられていた。全く見えないーー。
痛ッ。
首元に歯が立てられている。
気持ち悪いーー身体が怠い。
「ふむ、悪くはない。しかし、どこか薄いというか、さっき飲んでいた薬の味か。古き血も薄味だと微妙か」
吸血鬼は、彼女の身体から牙を離して、首を握り持ち上げる。
「やめて!!ヨルファに、ひどいことしないで」
喫茶店のカウンターから、リシュアが駆け寄ってきて、涙目で叫ぶ。ぼんやりとした視界で、彼女の全体の像は揺らいでいるのに、ヨルファには、彼女の悲痛な顔だけがハッキリと映っていた。昂っている彼女の血が。
もしかして暴走しかけている。周りを見ると、カチさんとクロムは他の吸血鬼に組み伏せられている。まずい、止めれないーーこんな大量の吸血鬼の中で暴走なんかして、自我が持たないかもしれない。いや、それ以上に、逆に喰われて、バラバラにーー。
「リシュア様ーー、仰せのままに」
エッと口にして、戸惑うリシュア。あまりにも呆気なく手を緩めて、丁重に床に下ろされた。スーッと赤味がかっていたリシュアの目が、収まっていく。
吸血鬼は、膝をついて、リシュアの前に傅いた。
「リシュア様、お迎えにあがりました。これより、吸血鬼の宴のために 貴方様に誠心誠意尽力致します」
リシュアは全く理解が追いついていないようだ。壊れた喫茶店の店内で、ウェイトレス姿の女性に跪く紳士は、不似合いな取り合わせだ。
吸血鬼の宴ーーということは、吸血鬼の世代交代が近い。そして、その候補の一人が……。
「リシュア様、行きましょう。何か持っていきたい物はありますか」
「……ヨルファ」
困った顔で、倒れた少女を見て、ヨルファの名前口にする。
「人はさすがに無理です。従属化して、擬似吸血鬼にしますか」
リシュアは首を横に思いっきり振っている。
「これ以上、この人たちに危害を加えないで」
「勿論です。リシュア様の命とあれば。しかしーーこの薬剤は置いていってもらいます。血の覚醒が強制的に止まってしまいますから。これ以上長引かせるのは危険です」
吸血鬼は、ポケットから錠剤を取り出す。緊急用の血の暴走を抑える薬だ。注射ほどの効果はないけど、一時的に抑える効果はある。
ヨルファは、リシュアと吸血鬼のやり取りを、薄目でなんとか見ていたが、徐々に身体は睡魔に包まれて、深い微睡みの森に迷い込んでいった。
次に、目が覚めた時には、リシュアはいなくて一通の置き手紙だけが残っていた。
『いつか、出会った場所でーー』
「リシュア、久しぶりね」
「ヨルファーー」
「ずいぶんと、吸血鬼の匂いが強くなったわね」
廃墟に立つ赤い髪を嵐の名残が吹き抜けていく。リシュアは闇夜に目立つ白い外套をはためかせて、ヨルファを見下ろす。湿った大地は、乾き切らずにジュクジュクと化膿した皮膚のようだ。もう、この辺りは、随分と取り壊されて建物はこの廃墟だけになっていた。
「ヨルファは、ずいぶんやつれたね」
ひどい注射痕が腕にできているのを隠すように、日焼け用のアームカバーをつけている。夜の女王は無慈悲な人間を慈しむような哀しい瞳を見せる。
「あなたを捕まえるためよ」
「無理だよ。私、世界最強の生物だから。吸血鬼と修道女の狭き門から生まれた、生まれながらの化け物。吸血鬼だろうと人間だろうと、誰も、ここまで来られないよ。どこにいっても異物な存在。吸血鬼たちも、途中で叛旗を翻すしーーねえ、どうして、みんな仲良くできないのかなぁ」
「ユタはホムンクルスだし、私も吸血鬼狩りーーそれぞれ運命があるのよ」
「そういえば、服、返してないなぁ。もう破れてしまったけど」
「ホムンクルスは短命だから。もう、いないわ。会いたければーー」
「地獄で逢える?」
「いいえ、家に帰ってきなさい。パソコンに自分でデータを移しているから。話したければ、話せるわよ。今は新しい肉体を作るのに、だいぶ処理能力を使っているけど」
「アハハ、なにそれーー。それで生きてるって言えるの。あーあー」
乾いた大袈裟な笑いが、残響していく。首をあげて月明かりを見ている彼女は、下を向こうとはしない。
「寂しそう……。まるで月に向かった輝夜姫ね」
「それなら、差し詰めヨルファは、無理な難題に応えるナイト様」
「ごめんね。中和剤。これをあなたに撃ち込むわ。元の人間の暮らしに戻してあげる」
「無理よ。もう、わたしの過去や記憶がそれを許さない。ヨルファがわたしを守ってくれるっていうの。地獄の底まで」
「あなたを引き上げてあげる。それがわたしの運命だから」
「死んだら、血の従者にしてあげる。けど、死なないでね
白い装束は、闇夜でも光の矢のようで一瞬チラつく湖畔の輝きのようで、瞬きの間には、次の変化を繰り返す。万華鏡の模様が素早く変わっていくように、戦火の衝突は地面を抉り、廃墟は瓦礫へと二度と戻らない移行を済ます。
そして死の接吻は、乾いた地面にーー。膝をついて、ヨルファの体躯は折れて、前のめりに倒れた。
「ほら、ダメじゃん」
リシュアは、ヨルファの頭を抱えて、膝にのせる。浅い呼吸ーーもう指も動かせないほどの疲弊している。血色も悪くて、病人のようだ。
「まだ大丈夫かな。血の従者にはしないで。私の血ーーよく味わってね」
指先から血の雫が溜まって、一滴になり唇を伝っていく。線香花火が降ちるように、ソッと失われていく。
「中和剤、貰ってくね。たぶん、使う頃には、吸血鬼も吸血鬼狩りも、教会も全部なくなったあとになるだろうけど。そんな区別はなくなるんだ」
白い外套を脱いで、ヨルファにかける。北方の十字教会の一派からの戦利品だ。
「生命力を向上させて、防御性もある私のお気に入りだよ。白くて目立つから着ないように、アシュレーからよく注意されていたから、プレゼントに丁度いいよね。中和剤と交換ね」
リシュアは、去っていく。一度、振り向きはしたが、もう足を止めない。アシュレー・ロックウッドたち吸血鬼の仲間が、すぐに周りを固めていく。また、白い装束の十字教会の一派も見える。
氷の仮面。
無表情になった玉座の孤独な女王は、揺れるダモクレスの剣をも掴んでしまう存在。神のように崇められ、彼女の涙も血も、もう真正面から見るものはいない。月下の夜の住人は、太陽を壊して自らの光を失う月になるつもりはない。少女は危うい境界線上を、赤い糸の上を裸足で独り静かに歩んでいく。
嵐が連れてきた余韻は、もう喪失していた。揺れることもない一本道を、乙女は踏み違えない。