まあ、文末とか色々ーーせっかく人称のことを話したので
人称と同じく日本語の文章で問題になるのが、文末だ。文末をどうするか、というのは、気にする人は気にする。
まあ、ライトノベルは、話し言葉よりなので文末なんてしったこっちゃねーよ、という人も多い。話し言葉は、かなり適当に文末を処理できるからね。そうでしょ。
文末をどう終えるか。
一番は、「ーーた」だ。『私はーー思いました』とか、で終えるんですよ。
た、た、た、と続くと美しくないと語感に敏感な人は思います。
だから、工夫を凝らします。
ル形で終わらせようとします。
投げる、蹴る、思う、とか、もしくは、面白い、嬉しいとかーー、つまり動詞の終止形や形容詞の終止形ですね。
ね、とか、よ、とか、な、とか終助詞でも終えれますよね。まあ、話し言葉ならね。そうだよな。
まあ、終助詞で終えると、小説というより、公演っぽいですけど。話し言葉風ですね。
何で、文末を区切るか、問題は、根深いです。
元は翻訳から来ているそうですが。べし、とか、なり、とか古文でならうでしょう。でもね、基本は、終止形で終わらないしーー。
「翻訳で文名を売る位ひズルいことはない、他人の思想で、他人の文章で、左から横に書たものを、右から堅に器械的に引直すだけの労だらう、電話機や、写字生と大して相違する所はない、と語る人がある、少しも翻訳をしたことのない人、殊に外国文を読まぬ人にコンな考へを持つ者が多い。
是れ大なる謬りである、思想は別として、単に文章を書く上から云へば、翻訳は著述よりも遥かに困難である、少くとも著述に劣る所はない、少しく責任を重んずる文士ならば、原著者に対し、読者に対し、其苦心は決して尋常のものではない。」
ひどい文章ですね、今から考えると。句読点すら、ちゃんとしてないじゃないか。
終止形でも、「。」なんてうちませんよ。ええ、普通です。
少し古い日本の文章は、ずらずらとつながっていきます。近松とか、そうですし。これはひどい。一番は、谷崎潤一郎とかでしょうかね。
ああ、長ったらしい。
そもそも、文という単位がないですからね、昔はーー。翻訳から、来てるんですね。翻訳しないといけないので、頑張って区切ってるんです。
そのための、た、だ、である、なんです。
無理やり、ここで切りなさいと、命令しているんですね。
ピリオドに合わしてね。
近代日本語の名文が、「ーーた」のわけですよ。
やっと翻訳できた万歳なんです。
こんな、話し言葉調では、いけないのね。だから、「た」が発明されたわけだ。
もう、ピリオドに合わして区切りやがれ、と翻訳文体全盛期だ。
「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者にいわれた。二、三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上――我慢出来たら五週間位いたいものだと考えて来た。」
た、た、た、たーーと文を区切る美しさだ。まあ、野蛮にも思えるようです。柔らかい美しさがないからねぇ。
ライトノベルならば、こんな文末問題は無視できる。
だって、話し言葉が主流すぎる文体だから。
いかようにでも、文末を……。
操作可能。
試しに、なろうで、【文末】と検索してみるだけでも分かる。
誰も気にしてないと。
文末をライトノベルで気にする奴なんてほとんど見たことない。
適当に、文末アレンジし放題だし。
言い切らなくても全然不思議じゃない。
区切り放題だ!
『「だって……」
そんなのあまりに悲しいじゃないか。』
こんな文章がありなんだから。文末問題なんて、ただの昔のきっかり文を切りたい勢の願いにすぎないんだぜ。
好き放題、切りたい放題、やりたい放題。
どこで切ってもかまわねーだろ。
だって、話し言葉じゃん。完全なる。
ライトノベルって、そうだろ。
カチッ、カチッ、と決めなくても、文が成立する日本文だろ。
「私はーー思いました」は、ちゃんとしすぎてると、感じるだろう、それが日本人の文の感覚だろう、特に話し言葉の、どうして文を区切る必要があるのかね、区切らなくても、文の意味は伝えわるはずさ、だからつらつらとエンエンとつなげていくのが日本の文体さ。
まあ、落ち着こう。
もっと、我々はキチンと文章を終わらせるべきだ。文とは一つの魂である。
故に、文が、途中で終わることは許しがたい。
こう思う人がいる。つまり志賀直哉系の短くて分かりやすい文を書こう系の人。論理的で、分かりやすい文体だ。日本人が習う文章だ。ヘミングウェイだ。直訳文体だ。
「私は、16歳の高校生だ。名前は、シズク、ヨミハラだ。最近、恋人のA君と上手くいっていなかった。だから、野球部のマネージャーのCちゃんに相談した」
なるほど、分かりやすい。でもね、うーん、説明っぽい。
なんとかして、その「た」という翻訳文体を退けたい。
主語も述語も省略したーい。
「シズク、ヨミハラ16歳の時。高校生だったあたしは、Aと上手くいってなかった。野球部だったA。あたしは、Cちゃんに相談したよ」
うーん、どうだろう、例が悪いね。難しい。日本の文らしい文なのかなぁ。
話し言葉風にアレンジしていかないとねー。
意外とケータイ小説にルーツがあるのかな。特にライトノベルはーー。
書き言葉って、翻訳文体ですよね。まるで英訳で狙う文体じゃん。
え、「た」で終われば完了か過去?
え、「る」で終われば、継続や現在?
ちょい待て。
日本の文章を冷静に見てみよう。
ぐちゃぐちゃだぞ。
「ーーである」「ーーだ」「ーーです」
うーん、もっと終助詞ついてませんかね。話し言葉だと。
日本人って、敬語大好きですよ。無理やりにでも敬語っぽく、たまふ、とか付けるじゃん。
もしくは、文を中途半端に終えてしまう。
ああーー、日本人の文章の主観性よ。
「雨が降る』より、『雨が降っている』と、自分のよく分からない情感をふわっと含ませる。
いや、分かってないです。
正直、文末における文体って、なんなのか?
ライトノベルで、気にしている人いるのか?
翻訳で文末を明確に区切れ問題勃発。
区切るとなると、文末区切ります表現の必要。
「た」の全盛期。
うん、ちょっと待って。
話し言葉に戻っていいですか、ライトノベルはーー。
やったー!解決だ!
浅はかなり、ですかね。
まあ、そうでしょうね。
【補論ーーまあ、ついで】
英作文で難しい例って何か。
「夕日がゆっくり沈む風景をおばあちゃんと見るのが、私の思い出だった」
これを英作文に直すのが難しい。
つまり、動名詞とか、thatで主語にドデカイ物をおけないんだ。
「いとことボールを使っておままごとすることが、その頃の私の楽しみだった」
いやいや、もう無理だ。そんな状況説明の大きな重みのある主語はノーだ。美しくない。
治すと真逆の語順にするしかない。いや、まあ、元が真逆だし、英語と日本語って。
でも、日本語って、こういうのは多いんだよね。
初っ端に重たい名詞化をしてしまうのが。
「夕焼けに染まる空、カモメが飛んでいる海で波が引いていくのを見ていることがーー」
これを主語におけるんですよねー。
ああ、不思議。
なんだ、これ。
「テレビを見ると、衆議院議員のカマチが頬杖をついて暇そうにしているのが、映っていた」
うーん、語学力が足りないせいか。
いや、でも名詞句って、思ったより長くできないんですよね、英語の主語ではーー。構文だと、it is ……that系とかに、文構造そのものを変えないと。
翻訳ってムズイね。
【補論の補論】
「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者にいわれた。二、三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上――我慢出来たら五週間位いたいものだと考えて来た。」
この志賀直哉の文章でも分かるけど、日本語は、主語はないし、動詞は後半にあるので、状況描写が前方にズッシリとおかれやすいですね。
「山の手線の電車に跳ね飛ばされて」
「その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ」
こういう状況描写のようなものが、前にきますね。主語や動詞をほったらかして。
「背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事」
「二、三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからといわれて、それで」
『そんな事』、『それで』と、膨大な状況を平然と受け取って、繋げていきますね。
日本語で小説書いていると、分かってきましたけど、これが美しい日本のあり方なんでしょうね。
主語は省略。動詞は後半。ならば、決めてはーー。
これが英語だと、主語+動詞と続くので、全く違いますね。




