言葉の正しい意味について
言葉の意味・使い方の正解。
それを求めると、権威的な支配を認めることになりがちだ。その言葉の使い方を押し付けるのは、誰になるのだろう。
辞書という固定化された言葉の空虚な縛りから、小説家や詩人は、言語を救わないといけない。
文字が、辞書の上に存在している状態よりも生き生きとした状態へ。
言葉は、もともと、このように使われてきた論。
ちょっと森鴎外あたりまで遡っただけでも、嫌になるような文体が見られるけど。無駄なカタカナ・漢字の汚染。そこまで漢字にする必要あるのか、と。
さて、もし、もともとの意味に帰れ、となるならば、そして、それが正しいとーーまるで神が「初めに言葉ありき」と、完成した言語を我等に与えたもうた、ようなーー、なるならば、私たちは、語源的解釈に服さねばならなくなる。
わたしは、これは語源による詭弁だと思うのですが、語源を調べて、だから、こういう意味で正しいとするのは、哲学とかでよく見る。ハイデガーぐらいから流行ってそう。
そも、辞書の用法を絶対的正義とするならば、「ここに、こう書いてあるから、信じろ」というような論にも見えてくる(これも詭弁論の一形態)。
そして、権威者や専門家の言うことを、無批判に受け入れることになる。なぜ、その語源や意味が正しいとなるのか。
言語において、世代や地域によって、意味合いが変わるのが当たり前だ。近代になって、言語の統一が行われて、辞書が編まれたとしても。
方言は、余計な上積みだろうか。それとも、言語の古層なのか。赤ん坊は家庭で言葉を覚えていくならば、家庭内の言葉が優先されて、次に地域、最後に標準語のような取得ではないのか。
しかし、言語の双方向的コミュケーションなので、親も地域や国家の言語表現の影響を受ける。流行り言葉、流行語が、家庭に忍び込むように。
でも、社会や国家は、言論統制をすれば、言語表現を押し付けるのみで、自分たちは天上の法律の用語のような、意味不明な言語を、そのまま残せるのではないか。
謎の暗号文のような文語体。文章は、口語よりも統制を容易にかけれるのではないか。
言葉の正しい用法を、決める権利は、母語話者にすら存在しないのだろうか。
方言を喋っている地方の人々に向かって、その方言は間違っていると言ってみたい。はたして、受け入れるだろうか。
母語の話者は言語を使用する。使用されて生きている言語の存在は、いつも流動体で、水物だ。
言語は、そのとき、その場所、その文脈でしか伝わらないような様態になる時もある。仲間内の、ほんの一時だけ、開花する一輪の言語。内輪言葉。
この内輪だけで通じる正確な言葉というものを、全面的に他者に押し付ける言葉ができると、僕らは歓喜するだろう。
言語を支配する悦び。
ああ、われわれは他人の言葉を自由に操れる。
母親が赤ん坊や少年・少女の言葉遣いを強制するときの悦楽。とにかく、言語とは、攻撃性の現れる場。
そして、相手に望むのは沈黙。
一方的な説教の悦ばしき。
怒り、そして怒りの解消の、あのドーパミン。
そのとき、感情というものの扱われ方の差別に気づく。
独裁者を怒らせないように。
そして、子供はいつも感情豊かで、傷つけられる。
感情労働というサービス業のあり方が、そこまでする必要はないと言いたくなる。
感情のコントロール、言葉のコントロール、仕草のコントロール。監視社会の極めて強力なあり方が、日常の全てを白々しく、遠いものにする。
終わりなき日常を生きるべき時に、日常というものが、日常として現れる場が消えていく。全てが監視される日常。自己監視、自己検閲。権力の網の目。
言葉に対して、俺は、こうやって、言葉を使うんだ、と言っていい。
地方から出てきた大学生が標準語を使う気味悪さ。君の言語を売り渡すな。言語は大切なものだ。自分にとっても。
社会的な圧迫や国家的な要請、学問的な必要。
言葉を固定して、奪い取ろうとする算段。
正確な意味。
それは、きっと、一つに収束するのだろう。
しかし、人間がこれだけいれば、意味が一つで止まるのはおかしい。
何が正しいとか間違っているとか、いったい、誰が決められると言うのだろう。
歴史が、僕らに言語の正しさを教えてくれるのだろうか。
その語源的解釈の正しさを。
無理だ。
最後に出てくるのは、権威による正当化だ。
話し合いで、言語の意味が定まるわけがない。
しかし、言語の本質とは、単一の意味にあるのだろうか。
初めに文がある。論理学は、そう語る。
それならば、初めに文脈があるのかもしれない。
そして、もっと言えば、初めに、信用の体系がある。
そして、初めに、生、がある。
生の切り分けられた、一つのブロックの一部が、言葉だ。
氷を砕いて分けていったカケラだ。
言語のプリズムを。
散乱する言語の幻惑が。
ああ、言葉よ、その始源よ。
その眩さよ。